バターフライ 噛みはしないでしょうね。 警戒を露にした目で男はわたしを見た。ええ、もちろんです。わたしは返す。存知のとおり、蝶に歯はありません。それは、確かに、わかってはいるが。男の答えは歯切れが悪い。臆病者ですね。わたしはちいさく毒を吐く。 男が勇気をふりしぼり、おそるおそる彼、あるいは彼女へと手をのばした。そのときだ。ばさりと細い身体に不釣合いなほど大きな翅が広げられ、それとともに生じた風は彼を吹き飛ばした。ひい、と情けない声を上げて男はしりもちをつく。大丈夫ですか、声をかけて近寄ろうとしたとき、男の視線の先に気がついた。にらむような複眼。何万枚ものレンズたちがそれぞれ男を映している。何万も並ぶ恐怖に引き攣った顔は、むしろ笑っているようだ。わはは。 このこはおこっているようです。これ以上機嫌を損ねてしまうまえに、おかえりなさい。 あおってやれば、わたわたと荷物を抱えて立ち上がり男はばたばたと逃げていった。一番大きな荷物を忘れている。もし。なるべく大きな声を上げたつもりなのだけれど聞こえなかったのか無視をしているのか、それどころではないのか、男は振り返らなかった。大きな虫取り網を手に、呆然と男の背を見送った。男を威嚇するために開かれた翅はそろそろと閉じられた。あたりにはまだ、きらきらと鱗粉が舞っている。とてもきれいだ。 いけませんね。わたしを見て、蝶は言った。なにがですか。その網です。あみですか。網目が粗すぎて、翅を傷つけてしまいます。わたしはざらざらの網に触れてみる。なるほどたしかに。それにこの網。この大きさじゃあ、あなたを捕まえられませんね。わたしが笑うと、蝶も笑った。翅が折れてしまいます。しかし。ふと、真面目な顔になって蝶はわたしを見た。なにがですか。まぬけのように繰り返して、蝶を見上げ小首を傾げる。目の前に広がる何万ものわたしは、蝶がわたしを見ている証拠だ。あの男です。友人ではないのですか。なんだ、そんなことですか。構いません、あんな男。あなたを捕まえて、食べようとしていたのですよ。たべる。不思議そうな顔で、蝶はわたしを見た。あの男は、食べるつもりだったのです。しかしそうですね、わたしなら。わたしならば、食べてもらいたいものです。わたしは人は食べませんよ。わかっています。わかっています。けれど、できることなら、わたしの、からだの、液体という液体を、すべてあなたに、 |