車の鍵が見あたらない。テーブルの上の書類をひっくり返し、ストーブの上の本を持ち上げる。回されていたチャンネルは一周して、キャスターの無駄話が鼻につくニュース番組に戻される。ニュースは報道をするものだ。私見を話すためのものではない。台所からの要望で、画面は安っぽい画面の韓国ドラマに変えられた。九十年代のアイドルのような顔をした女優が大げさな演技をしていた。テレビの前のソファでリモコンを持ったままの息子は興味もないくせにテレビの画面を見つめている。鍵を知らないかと問うと、予想通り気のない言葉を返された。念のため母さんにも訊いてみる。知らないわよ、そんなことは知っている。 毎日に面白みが感じられなくなったのはいつからだろう。私や、この子の目が死んでしまったのはいつからだったろう。趣味でも持つべきだったか。忙しい日々に追われて余裕ばかりなくし、なにも楽しいと思わない。無感動になっている。よくないことだ。昔は楽しかったのだろうか。ずっと昔、子供のころ、学生のころ、社会人になったばかりのころ。母さんとであったばかりのころ。こどもたちがまだ小さかったころ。私は活き活きしていたはずだ。毎日が輝いていた気がする。多少美化されているとしても、それは確かだ。なのに思い出せない。荒んだ心でどんなに素晴らしい映画を見ても、なにも感じられないのだ。テレビの上、ソファの下、念のためもう一度ポケット。どこを見ても鍵はない。時計を見る。いかん、時間が。あまり待たせてはいけない。そう急いだところで、私が遅れてもあの子はおそらく友人との会話に花を咲かせているのだろう。むしろ、少し遅いほうがあの子としては嬉しいのかもしれない。 「学校はさ、」続きを促すような無言。あるいは聞いていないだけかもしれない。家にいる時間が短くなるのはいいことだ。活発で悪いことはない。それでトラブルを招くことになっても、大概のことは挽回できる。人間として一番間違ったようにさえ踏み外さずにいてくれれば、あとは好きなようにしてくれて構わないのだ。彼の「好きなよう」が少しでも明るいものであって、それに対する周囲が少しでも寛容で優しくあってくれればいいと思う。「どうだい」 リビングテーブルの椅子を順にひく。代わりに見つけた消しゴムを拾いテーブルに置いた。このところ屈むのが億劫になってきた。やはりなにか趣味を持つべきか。そういえば、ダイニングテーブルのほうを見ていなかったな。椅子を引いてテーブルの下を覗き込む。向かい側の椅子から金属がわずかに見えた。蛍光灯の光を受けてぬらりと光る。 「楽しいよ」 ドラマチックな音楽が流れた。振り返ると息子はやはりテレビを眺めていて、ここからは後頭部と背中しか見えないけれどいつもどおり死んだような目をしているのだろう。画面では若い男女が抱き合っている。「そうか、いいことだ」テーブルの向かいに回って鍵を拾った。椅子にコートをかけたときにポケットから落ちたのだろう。いかん、もうこんな時間だ。 車に乗り込みエンジンをかける。着くころにはすっかり花を咲かせているあの子は私を見て残念そうな顔をするだろう。しかしすぐに帰れば夕食があることを思い出して元気よく車に乗るだろう。部屋を出るとき息子の顔は見えなかった。アクセルを踏み、私は少しだけ泣いた。 |