坂道 私の通っていた小学校は、長い坂道の末にあった。低学年の頃はその長い坂に苦しめられたものだ。幼稚園も出たばかりの子どもらにあの坂は酷であったが、元来あそこは中学校であったらしいのであのような場所に建てられていたのも文句の言えないことだった。どのような通学路にしても友人と談笑していればあまり苦にならなかったし、それすら笑いの種へと昇華できた。 毎日往復していたにも関わらず、私がその坂道にまつわることで思い出せることはみっつしかない。ひとつめは一緒に帰宅していた友人の目と鼻の先に鳥の糞が落ちてきたことだ。これには私も友人たちも腹を抱えて笑った。なににでも笑える年のころだったのだ。ふたつめに、これは他二つに比べると随分ぼんやりとした話になってしまうのだが、「学校坂道」という歌を知っているだろうか。私はこの歌を音楽の授業で習ったのが、なぜだか私はその中で歌われている学校は正に私の通う学校なのだと信じ込んでいた。私の住んでいた街は内陸で、私は母の実家でしか海を見たことがない。しかし記憶の中で校庭のジャングルジムに登ると、必ず遠くに海を認められた。その青は実に清清しかった。「学校坂道」はいい歌だ。気分がよくなってきたので今も口ずさんでいる。そして最後に、みっつめは坂道を転がる男を見たことだ。男の転がりは実に優雅であった。音も立てずふらつきもせず、その軌跡は丁寧に車道の中心を辿っていった。丁度校門を出たところであった私は口を丸く開けて目の前を通り過ぎる男を見送った。友人は男に気かなかった。友人だけでなく、その場にいる誰もが男を気に留めていなかった。堪らず友人も置いて駆け出すと、私は転がる男を追った。当時の私は二十と六十の違いはわかっても三十と五十の違いは判別し難かったので、男の薄くなりかけた頭髪から若くはないだろうことしかわからなかった。それすら三十の後半で生え際の危うい親戚を知っているので断定は躊躇われる。私はそのとき初めて坂道を駆け上るよりも駆け下りるほうが遥かに難しいことを知った。何度も前のめりに倒れかけては何度でも踵に力を入れて踏みとどまった。坂道は長く、割合急である上に曲がりくねってもいたので男の姿はすぐに見えなくなってしまった。また私の体力もすぐに限界が訪れた。体勢も立て直せないほどにつんのめっても尚、私の頭には転がる男の姿しかなかった。私の目の前を通り過ぎる一瞬に見た男の体は几帳面に折りたたまれて、背中から膝を抱える腕までなんとも収まりのよい美しい曲線を描いていた。近づいてくる地面を見つめながら私は体を丸めた。今にも地面にぶつかると言ったときに頭を腕と膝の中へと納める。アスファルトは軽く私の後頭部を撫ですぐに生温かなざりざりとした感触は項に背中にと渡り、私は転がり始める――はずだった。あながち間違ってもいないが、頭頂部より僅かに後ろをしたたかに打ち付けた私は一回転で仰向けに倒れた。打ち付けた箇所が熱く血を流し始めていた。坂道の下は十字路である。もう男には追いつけないだろう悲しみとわけのわからない痛みに幼い私は嗚咽を上げた。それぎり転がる男は見ていない。或いは転がっていないその男ならば見たのかもしれないが、頭髪の薄い男などいくらでもいるので男を判別できる要素を私は他に持たなかった。病院で目を覚ますと母に一頻り怒られ泣かれた後、何故手をついて受身を取らなかったのかとまた怒られ泣かれたが、私はその時にようやくそうすることの確実性と安全性に気がついた。頭を数針縫った私は抜糸が済んで少しすると懲りずに転がる練習を始めた。しかし一向に転がり始める気配もなかったので、いつの間にか飽きてやめてしまった。 一連のことを思い出したのは、町内でご婦人が転がりながら犬の散歩をしているところを見たからだ。私は転がる人を見るのは二度目だったが、転がる犬というものは初めて見た。数十年ぶりに人間が転がれるものなのだと思い出すと、私はいつかのように転がる練習を始めた。コツさえ掴めばあとは簡単だった。勢いがあれば緩い坂ならものともしない。転がるようになって頭髪が少し薄くなった。元々祖父は禿げていたからいずれ私もそうなる運命だったのだろう。転がることは実に快適だった。先日、転がる私を子どもが呆然と見送っていた。あの子どもは何十年後、転がり始めるのだろうか。 |