(焦燥が背を押したらくたくたでも走らないと)




雨中魚



 ひやりと背中にシャッターの冷たさが伝わってきた。
 耳に装着したイヤホンから音は流れない。CDはしっかり入っている。たった先刻CDショップで手に入れた或るバンドのニューアルバムだ。勿論ぼくは今日これを手に入れ聴くことを楽しみにしていた。まだ聴いてはいない。
 今日の営業が終了した店の目立つ商店街の中で、ぼくは適当な店のシャッターに凭れて座り込んでいた。すぐ隣には先刻買ったCDのケース。歌詞カードはざっと眺めた。まだ再生ボタンは押していない。
 こんなところで無防備にこんな座り込んでいたら、不良に絡まれてしまうかもしれないなあ。ぼくは如何にもと言った感じに気の弱い狙われ易い高校生だ。かつあげなんかに会ったら困る。  静かに目を閉じる。息を吸うと、ひやりと冷たい空気が肺を満たした。

「なにしてるの、涼宮」
 明確な自分への呼びかけに、ぱちりと目を開くとぼくと同じ制服を着た女の子が立っていた。ぼくはどれ程の時間こうしていたのだろう。うっかり寝てしまっていたのかもしれない。彼女はイマドキの高校生とは思えないほどに冷たい瞳でぼくを見下ろしている。余りの居心地の悪さに、ぼくは身動ぎをした。
 彼女は何故かやたらとぼくのことを知っている。最初はぼくに気があるのでは、なんても思ったけれどそんな甘いものではなかった。なんだか知らないけど、異様にぼくに突っかかる。それは愛情の裏返しとか言う生ぬるいものでなく、あからさまな嫌悪の表れのような、
「こんなとこで寝てたら、死ぬよ」
 汚らわしいものでも見るような目で、眉間に皺を寄せて彼女はぼくを見る。負けじとぼくも彼女を睨んだ。どうせ見た目が気の弱いぼくじゃ、効果なんてないのだろうけど。  なんだか虚しくもなってきた。ぼくは彼女から目を逸らして、溜息を吐く。
 何故だか彼女はぼくが所謂シンガーソングライターなるものになりたいことを知っている。こんなことになるなら、軽音楽部になんて入らなければ良かった。「それ、なんの曲」そう訊いてきた彼女の目は、今ほど冷たくはなかったはずだ。記憶なんて美化されるものだけれど。
「ねえ」
「なんだよ」
「涼宮の歌、聴いてみたいんだけど」
 言って、彼女は馬鹿にしているとも純粋なものとも取れる調子で笑った。ぼくは首を横に振る。自身の才能の無さは、自覚しているつもりだ。もうすぐぼくも十七歳だ。こんなことじゃなく、いい加減受験勉強をしなければいけないのに。日本はもう冬に入ろうとしている。焦燥がぼくの背を押す。『なにかしなくては』、『なにかしなくては』
「いい加減にしなさいよ、あんた」
 普段の五割増で強くなった彼女の声に、ぼくは顔を上げる。見ると心底気に食わないとでも言いたげな顔で彼女はぼくを見下ろしている。いい加減にして欲しいのはこっちの方で、もう放っておいて欲しいのだけど。
「歌えばいいのに」
 ぎくりと、ぼくの肩が震える。ぼくは誰にも自分の歌を聴かせたことなんてない。夢を語ることと同じで、怖いからだ。
 才能もないし、人前でも歌えない。きっとぼくはこのまま歳を取っていくのだろうな。世の才能ある人間がデビューしたり、オーディションに受かったりCDを出したりしているこの年代を、ぼくはこうして閉じた店のシャッターの前に座っているんだ。なんて無駄な人生。ぼくにはこのCDを泣かずに聴き切ることすらできない。感動ではない、単なる羨望と憧憬。きっと彼女は明日楽しそうにこのCDの良さを話すのだろう。
「甘ったれてるんじゃないわよ! あなたは才能がない、判ってるんでしょ。歌だってそんなに上手くないし、声だって特別いいわけでもない。素晴らしい歌なんて作れたことがない。それでも歌いたいんでしょう。だったら、恥ずかしがらずに歌いなさいよ。路上で弾き語りのひとつでも、してみなさいよ。折角軽音部に入ってバンドを組んでるんだから、ライブでオリジナル曲のひとつでも歌ってみなさいよ。人の歌ばかりじゃなく」
 一気に言うと、彼女は踵を返してさっさと去ってしまった。ぼくはぼんやりとその背中を見送る。
 残念ながら今は手元にギターがない。ぼくはコードの通りに指を動かした。三億光年を超えたら僕を愛してあげられるかな、たとえ望んだ才能を持たなくても。
「いつか聴かせる」
 さしてずれていない眼鏡を直して、とっくに去ったきみに笑う。上手く笑えたかは知らないけど、どうせ見てないんだからいいだろ。
立ち上がって土埃を掃う。早く帰らなくては、明日も普通に学校なんだから。受験勉強も少しはしなければ。どうせ今からじゃ三級大学しか入れないだろうけれど。
 昨夜はベッドの中でなにかいいメロディが浮かんだんだ。もう忘れてしまったけれど、きっと今度はそれよりは良い歌が作れるだろう。
 どこかで聴いたメロディだったかもしれない、だけどいつかはオリジナルだと胸を張れる歌が作れるかもしれない。無理でも結局、ぼくは新しく歌をつくりつづけることしかできないんだ。気が付くとぼくはぼくのどこかでメロディを製造して、頭の中を満たしているのだから。それこそ他の音楽を聴いていたって、だ。
 残念ながらぼくにはこの世のどんなに素晴らしい曲よりも出来のわるい自分の歌のほうが大切なんだ。どんなに出来が悪くても、上手く本当に歌いたいことが歌えていなくたって、ぼくはぼくの歌が嫌いで、好きだ。脳の中だけで留まらず、ちゃんと形を与えてあげたい。しっかりとした歌詞を、コードを、与えてあげたい。そして人間の前で歌いたい。彼女の言うとおり、ぼくは歌も上手くないし、声もたいして良くもない。馬鹿にされるかもしれない。誰かの真似だとなじられるかもしれない。それでもぼくはぼくの作った歌を歌う。気恥ずかしさに縮こまっていても、最後には恥ずかしさも忘れて歌うだろう。

 そう考えたら、今CDプレーヤーに入っている音楽も素直に聴くことができるかもしれないと思った。
 CDケースをちゃんと鞄にしまって、ぼくは家路につく。当面の目標は取り敢えず、このCDを涙を零さずに聴き切ることだ。

 再生ボタンを押す。





(目的地の見えない旅は淋しくつらいのだろう)(それでも歌い続けて)
(三億光年を超えたら僕を愛してあげられるかな)

(きみに届きますように)



(どうせ明日にでも目は覚めるのだろうけど)







(07/04/03)