21g
夜は暗い。
普通のことだ。当たり前。そう、当たり前。
二段ベッドの上段。いやに天井が近い。布団が僕を包む。優しくはないけれど、いじわるではない。確かに。
「普通」が判らない。
普通とはなんだろう。普通の人は何を考えて生きているのだろう。
朝目が覚めて学校に行くのだろう。目覚めは良くはない、面倒くさいけれど、それは義務であり日常。家を出る。登校中何を思うのだろう。空は見るのだろうか。また、見て何を思うのだろう。綺麗だとか、思うのだろうか。それとも何も思わないのだろうか。夜寝る前、普通の人たちは死について考えるのだろうか。己の身の上、幸せや不幸せについて考えるのだろうか。愛について、彼らはどう言った思想を持つのだろう。
ふわりふわりと浮遊感。「僕は浮いてる」。世界にしっかりと溶け込めていない。何処で何をしていようと必ず見つかる。何をしたって「みんな」と違う。必ず見つかる。巧妙に、容赦なく僕の身体は大衆からずるずると引き摺り出される。ふわりふわり、
「地に足が着いていない」と言われた。誰にかは、もう忘れたけど。特に壮大な夢があるわけでも、野望などもない。僕は「普通」を望む。なんでもいいから、とりあえず、誰か僕と普通に接してください。引き摺り出さないで。後生ですから。
何が地に足が着いていないと思わせる要因なのだろう。僕は現実を見ている。特に夢想もしていないし、なのに何故浮いているのだろう。なにかがおかしいのだろうか。見た目はさして、普通の人たちと変わらないと思うのだけど。前髪が目を隠す程度に長いことにしたって、このくらいの長さの人ならちょこちょこといるだろう。容姿はそうやって大衆に紛れられる。オーラでも出ているのだろうか。僕は見つかる。首根っこを捕まれて、ずるずると、
大衆から選抜されて引き摺り出される瞬間は恐怖そのものであるけれど、地獄はその後だから。そうなってからはもう引き摺り出された「瞬間」のことなど覚えていない。
僕は「学校」が嫌いだ。
僕の学校生活にはいつでも自身への苛めが付き纏う。始まりは矢張り覚えていない。気が付いたらだ。気が付いたら僕は二百人近くいる学年の生徒の中から見付かり、引き摺り出され、晒される。幼稚園は流石になかったと思うが、小学生のときは既にそうだった。金を要求されたこともあった。死の窮地に立たされたことも何度もある。身体中傷だらけだし痣だらけ。数々の暴行をわざわざ誰かに打ち明けるつもりはない。もし誰か傍に居ても弱音を言うつもりはない。現状はつらいが、言い方は悪いが慣れてしまった。これが僕の普通なのだ。苛められ体質とでも言うのだろうか。これが家庭に及んでいなかっただけまだ良かった。確かに母親も父親も特別僕を好いてはいなかったけれど、食事は出るしそれなりの小遣いはくれるし寝床も自分の部屋もある。僕はそれ以上何を望むと言うのだろう。
僕は基本的に学校では授業中を除き常に音楽を聴くことにしている。それだと手が空いてしまうので、手と目線は本を適当に捲っているふりを作る。自意識過剰とは理解しているが、周りの人間が全て自分の悪口を言っているように聞こえるからだ。ならば音楽で全て遮断してしまった方がずっといい。どうせ僕に話しかけて来る人間もいない。周りに誰もいないときは、聴いている曲を歌う真似もする。口だけ動かして、喉だけはその音を出せるように作って、声は出さない。流石に女性ボーカルを歌うのは難しいものがあるだろう。僕の声域は平均男子並である。
昼休みはまだ彼らの手に掛かっていない。僕は立ち入り禁止の札を無視して屋上へ出る。夏は終わり冬もまだ遠く、屋上は最適の昼飯処。何より静かだ。
ヘッドフォンを外して、弁当を開く。絶え間なく音楽を聴いている僕だが、本当は「ながら」と言うのは余り好きじゃないのだ。誰もいないのなら無理に聴く必要もない。
おかずを全て平らげご飯に手を伸ばしたとき、屋上に続く非常階段が鳴り始めた。規則正しく、カン、カン、カン、
それの三倍速で僕の心臓が鳴る。誰かが来る。誰かが。長年の勘が言う。こうやって出会う人間はろくな奴じゃない。必死で平静を装う。此処であまりビクビクした方が怪しいし、付け込まれる。普通にしろ。目立たないように。普通にするんだ。普通に……
ぎしぎしと軋みながら扉が開く音がした。階段は校舎から剥き出しで扉も鉄を組まれたようなものだから、扉まで辿り着けば相手を確認できる。しかし僕は目を瞑って俯き、認知を拒否した。黙って弁当を掻き込む。足音は澱みなく給水タンクの横に座る僕を通り過ぎ、裏庭側へと動いた。ズボンの裾が見えた。男子生徒であることには間違いない。僕に興味はないようだ。一息。恐らく段に腰掛けるのだろう。屋上の端はフェンスになっているが、裏庭側だけ太股の下程度の高さの段があるだけになっている。僕はゆっくりと目を開き、長い前髪の隙間から彼を見る。途端に少し落ち着いた動悸が息を吹き返す。死に兼ねない早さでばくばくと打ち鳴らす。ああもういっそ死んでしまえたらどんなに楽か。
彼は正に今現在僕を苛めているグループの一人だった。グループと言ってもたった三人。実際僕に暴行を働いているのは彼を除く二人だけだ。それでも同じグループ、油断はできない。もしかしたら僕を探していたのかもしれない。弁当を食べ終わったら怪しまれない程度にしかし早急に、此処を去る必要があるだろう。
彼は苛めを行うグループに所属しながら暴行を働かない。一メートルほど離れたところで僕と僕を痛め付け楽しむ二人をじっと見ている。何が楽しいのかは判らない。彼が良心の呵責から暴行に参加しないのか、はたまた何か理由があるのかは知らないが、とにかく彼は何があっても暴行には参加しない。ただ見ているだけ。時たま外された視線の先に何があるのかは知らない。宙を見ている。何を見ているのかは、知らない。
普通とはなんだろう。普通の人は自分は無条件で幸せになれると信じているのだろうか。最早意識すらせず、そう信じこんでいるのだろうか。
彼は「普通」ではない。どこかおかしい。僕と同じように。何かしらがおかしい。
「なあ」
異常なまでに肩が跳ねる。「来た!」心底僕は怯えている。僕を客観的に見つめる僕が、溜め息を吐いて「無様だね」と言った。黙れ、黙れ黙れ黙れ。
僕は顔を上げる。先程までどこか遠くを見ていた彼が此方を見ている。ついに彼にも暴力を振るわれるようになるのだろうか。嫌だ。涙すら浮かびそうになるのを堪えた。笑顔にはなれなくて、結局呆気に取られた顔になる。
「お前、俺のこと知ってる?」
一気に肩の力が抜けたのが、嫌でも判った。彼はまず自分を認知されていないと思っていたのだ。しかし、まだ油断は禁物だ。暴行が目的ではなかったところで、彼は何が目的なのか。
「……知っていますよ」
「なんで?」
追い討ちをかけるように気の抜けた質問に更にがっくりする。これだから。意外と苛めている人間には罪の意識もないものなのだ。毎日見ていて、あからさまに顔に痣まであると言うのに判らないのだろうか。
「僕を、苛めている人たちの一人でしょう。いつも離れたところで見ている」
「ああ、やっぱお前か。違ったらどうしようかと思った。悪い悪い」
謎だ。それから彼は昨日のテレビの話を持ち出した。お笑いの番組らしいが、僕は素直に夜は部屋で勉強しているから判らないと言ったら、面白かったネタについて実演も交えて話し始めた。離れたところから見ている様子では、もっと冷静で、冷めた人間だとも思っていたのだが。僕と同じような人間だと言うのも、間違いだったかな。この手の見間違いはよくあることだ。このくらいの失敗で、僕はめげない。まだ気は抜かない。会話が終わるまで気は抜けない。そう言うときの展開は、急だ。
一通りネタについて話して、評価。「でも最近のお笑いって人を馬鹿にしたようなものばっかだよな」、もう少し気持ちいい笑いが欲しいんだけど、なんてつらつらと感想が出て来る彼をぼんやり眺めながら再びペースダウンした箸を進める。自慢じゃないが、僕は食べるのはかなり遅い方だ。
お笑いの後に音楽について(此方は僕もちらちらと判ったから話に参加した)も話したあと、やっと話に一段落したらしく彼は息を吐いて天を仰いだ。段に手を着いて。僕が迂闊にそんなことをしたらそのまま後ろに落ちるな、と思って彼を眺める。彼はいつもヘッドフォンを着けている。誰かと話すときも、それは外されない。授業中はどうしているのだろうか。きっと、余程音楽が好きなんだな。そして、きっと、あまり人は好きではないんだ。
「お前はさ」
「はい?」
僕が返事をすると、彼はがっと反らしていた背を戻して僕を睨んだ。すぐに苦虫を噛み潰したような表情になる。一旦俯いて思い出したように欠伸をすると、再び僕を睨んだ。
しまった。何か間違えただろうか。大体人と話すことからして久しぶりだ。最初は声すらまともに出なかった。会話自体は何週間かしていなかったが、しょっちゅう歌を口ずさんでいた(歌によっては、たまに小声で歌うこともある)甲斐あってか、辛うじて声を出すことはできた。しかし誰とも会話していなかったことは事実であるのだし、コミュニケーション能力は確かに落ちていただろう。
「別に敬語じゃなくていい。どーせ同い年なんだし、ウゼエから」
さっきの反応はどうしたのか、しれっとした態度でなんてことでもないように彼は言うと、さっさと天を仰ぎに戻った。矢張り見込み通りによく判らない人だ。
彼はいつも空を見ているな。きっと、彼は少なからず空を綺麗と思っているのだろう。彼は音楽を聴きながら、移り変わる空を見て何を思っているのだろう。
「なんで死なないの?」
飄々とした姿勢からは想像できない辛辣な質問に弁当箱から彼へ視線を移すと、彼は真っ直ぐと僕を見ていた。僕に暴行を働く人間たちのような僕を見下したものでも、僕の状況を知っている女子たちのような、僕をゴミや虫けらの如き汚いものを見るような目でも、なかった。真っ直ぐに。飽くまで飄々とした態度のまま。薄く浮かんでいる笑顔は、残酷なものではない。「なんで生きてんの?」勝手な脳内変換。息が詰まる。左手で強く胸を押さえた。暫し考えて、何度か彼の様子も窺う。その質問はイコール「早く死ねよ」と言うことだろうか。この手を言われたことも既に何度かある。
「別に早く死ねって言ってるんじゃない」
僕の考えを見兼ねたように、相変わらずしれっとして続けた。飄々としているというのもなんだか違う気がしてきた。斜に構えているというのだろうか。世の全てを蔑んで、見下しているような。それは僕だけに対してなんて甘っちょいものではなく、世間全てに対して。なんだか危なさそうな人だな。
やっぱりあの人たちと話しているときの笑顔はフェイクなんだな。愛想笑いだ。 まあ、僕に接するとき大概の人は愛想笑いも作らないけど。あれが人間の本来の姿だと僕は思っている。彼らの僕を蔑む目にも、世への憂いや全てを嫌う憎悪が滲み出ている。人間って結局偽善者ばかりだな、それは苛めを黙認していることからも窺えるけど。なんて言うのだろう。彼も、髪は茶色で制服を着崩して、容姿は何一つ人々と変わらない。それでも「普通」ではない「異様さ」が滲み出ている。きっと僕も、彼のように、「異様さ」が滲み出ているのだろう。そしてその「異様さ」の質が、苛めやすいものなのだ。更に小柄な体格や、臆病な性格も影響しているのかもしれないけれど。
「……言ってる意味がよく判らないんだけど」
「なんでって、言葉通りさ。どうして死なねえの? 楽しい? 生きててさ」
苛めるグループの一人である人間が訊くか。頭の中だけで毒づいてもみるけれど、彼のそれは純粋な疑問だった。彼の言ったとおり、「早く死ねよ」という類の憎悪や嫌悪の類のものは、彼の表情や声音には見当たらない。
なんで? …………なんでだろう。どうして僕は生きてるのだろう。
「じゃ、質問を変えるか。死にたくない?」
「死にたいですよ」
びっくりするくらいの速さで答えが口から滑り出た。僕が自分でそのことに驚いていると、彼が「けーご!」と僕を嗜めた。一瞬変換ができなかったが、「敬語」と言うことだろう。
以前から僕が死にたいと思っていたことは自覚していたけれど、まさか初めて話す人間に言うほどだとは。しかし僕はその「死にたい」に纏わる行動は何一つしていない。自殺の方法も何も知らないし、自傷の類もしていない。
彼のシャツを捲くられた腕にはリストバンドがある。スポーツをする類の人が着けるような、黒い恰好いいやつ。確か彼はバスケットボール部だっただろうか。またこれも臆病で情けない話だと思うけれど、僕はリストバンドをしている人を見るとついついその下を想像してしまう。お洒落で着けているのか、汗を拭うためか、第三の意味か。
「じゃあ、どうして生きんの?」
「……さあ。なんでだろう、…判らない」
「ふーん」
訊いておきながら、さして興味もないように彼は相槌を打つ。空になったらしいジュースのパックをぐしゃりと潰した。其れのコンビニの袋に投げ入れると、段に乗せた手に力を入れた反作用で少し離れたところに足を着く。屋上の床に立って欠伸をすると、両腕を上に伸ばした。別に空を掴もうなんてあざとい青春映画のようなことをするわけではなく、単なる伸びだ。それから首を左右に動かす。右に傾けたとき、骨が「ごきり」と嫌な音を鳴らした。最近の若者は疲れてるって本当だったんだな。なんで若いのに肩が凝るのだろう。
「それ、」
彼が指差した先を見ると、どうやら弁当の隣に放置してあったポータブルCDプレーヤーがあった。ああ。矢張り彼はそれなりの音楽好きなのだろうな。
「なに聴いてんの?」
「えーと、これは…」
「あっ、ちょっと待て」
静止の意で掌をびしりと突き出すと、すたすたと僕の隣に歩いてくる。
「俺はねえ、音楽についてはそれなりの美学があんのね。基本的に人が好きな音楽についてどうこう口出しや手出しはしたくないわけ。でも、やっぱり人がなに聴いてるかってのは気になるところじゃん。まあ、基本的には訊かないけど」
「どうして?」
「だって、なんも考えてなさそうな人間が俺の愛するアーティストの曲聴いてたら嫌じゃん」
なんでもないことのように、彼は言う。それで僕は僕の考えを漸く肯定した。彼は僕と同じ類の人間だ。「普通」の人間がなにも考えていない馬鹿で阿呆な生命体に見える。「僕は普通ではない」、だから、彼らのようになにも考えていないわけではない。僕は幸せや不幸、愛、生、死だの、哲学者のようなことを思考する。結論は出ない。それでもいい。考えることこそ大切なのだ。何も考えない、無知で阿呆な「普通」の人間になってはいけない。―――僕は自分で「普通」になることを拒否していたのかもしれない。無意識のうちに。
「それで安易な感想を吐いてくれる…反吐が出そうだ。悪いけど、そんな科白戯言にしか聞こえない。
でも、きみなら許せそうな気がする。俺が愛して止まない音楽を聴いていたとして、きみはきっと彼らを大切に扱ってくれる。と、そう思えそう」
彼は本当に音楽を大切にしているのだろう。大切にすることがあるというのはいいことだ。きっと。僕は何を大切にできているのだろう。
「だから、俺はお前の音楽事情に口は出さないこととする。よく判らんだろうけど、俺の美学だ。細かいことは気にすんな」
「…それで僕はどうすれば」
「ん」
彼は不動のヘッドフォンを下ろして首に掛けると、床に置いてあった僕のイヤフォンを慣れた手つきで耳に引っ掛けた。
「きみがそのCDで一番好きな歌を一曲聴かしてよ。その歌を一人占めしたいなら別に嘘を吐いても構わない」
歌うように彼は言った。これだけ音楽が好きなのだし、きっと彼は歌うのも上手いのだろう。声もなかなか悪くない。もし彼が歌を作るとして、彼はなにを歌うのだろうか。エスパーなんて持っていないから、当然僕には判らない。
言われた通り、僕はプレーヤーの本体を手に取る。嘘を吐いてもいい、なんて言われても、吐くつもりはない。何より僕は彼のように音楽に対して明確なビジョンや美学、思想は持ち合わせていないし、彼が僕に言ったのと同じようなことを、僕も彼に思った。この歌を彼が好くかなんてことは知らないが、きっと彼はこの歌を大切に、丁重に扱ってくれるだろう。早送りボタンを押して曲を選択し、再生ボタンを押す。「一番好きな曲」と言われると難しいが、そこは「僕が今一番聴きたい曲」という個人的なものと統合した結果で選択した。
一曲、四分と少しの間、彼は黙って歌を聴いていた。目を瞑って、時たま開く。その目が何処を見ていたのかは知らない。コンクリートの屋上の床を見ていたのだろうか。彼は完璧に音楽に集中していた。夢中になれることがあるのは、素晴らしいことだな。
彼はイヤフォンを外すと、元あったように置いた。ばさばさと頭を振ると、ヘッドフォンを装着した。聴いている聴いていないに関わらず、これが彼の基本体制なのだろう。
「サンキュな。良かった」
薄く笑ってそれだけ言うと、彼はさっさと屋上から去っていった。なんなんだ。彼が去っていった非常階段を見たが、彼の姿はもう見えなかった。よく判らない人だな。
そんな彼が死んだ。
全校集会が開かれ、彼の名前が何度も出てきた。僕はそこで初めて彼の名前を知った。彼の死を悼む言葉が何度も何度も出てくる。ニュースにはならなかった。誰もが忘れているが、基本的に自殺は報道されない。特に彼に対しての苛めもなかったと言うことで、何の問題もなく彼の死は「自殺」として処理された。その事実には何も問題なかった。彼が自殺であることは何も間違いなかった。
その日、僕の机とロッカーと鞄の中からノートが消えた。メモ用にルーズリーフを持っていたから授業には差し支えなかったが、僕はノートの行方が気になって仕方なかった。嫌がらせなら教科書が無くなる筈だ。なのに何故、ノートなのか。消えたのは四時間目、体育に行っていた間。何故、どうして、
『言えよ、生きたいって』
僕は溜息を吐く。彼が目の前で投身自殺をしてから、彼の声が頭から離れない。どんな歌を聴いても、離れない。彼の清清しい表情が瞼の裏から離れない。焼き付いて、消えない。僕は溜息を吐く。
屋上の閉鎖が厳しくなった。もうすぐ業者がやってきて、完全に入れなくなるのだろう。今も二階と三階の非常階段へ続く入り口の前に看板が立ち、扉も閉まっていた。しかしそれは、外から上がれば問題ない。非常階段の出口(つまり地面に降り立つところ)にも鎖が張り巡らされ、「立入禁止」と書かれていた。しかし乗り越えられないものでもなかった。僕は看板を無視して鎖を乗り越えると、非常階段を昇った。
彼が死んだ次の日、僕は先生に呼び出された。なにも悪いことなんてしてないのに、とびくびくしていると校長室に通された。そこには彼の両親がいた。「まったく何がなんだか判らない」といった顔をしていた。彼が自殺を図った原因が、まったく判らないのだそうだ。そんなの、現場にいた僕だって知らない。
状況説明でもさせられるのだろうか、なんて予想も外れて、彼らは僕にダンボールを突き出した。不思議に思って受け取ると、ずっしりと、重たかった。かなりの重さだ。思わず僕はよろける。なんとか体制を立て直して、僕は彼の手紙を思い出す。手紙と言うか、遺書だ。
彼の友人が彼に書かせた、僕の遺書になるはずだったもの。彼は僕の遺書ではなく、自分の遺書を書いていた。いや、あれを遺書と呼べるのかというと難しい。
「遺書だよん」なるふざけたタイトル(?)から始まり、内容は「父ちゃん母ちゃん、友だちのみんな、ごめんっ!そんじゃね。」と言うだけで、小さく「あ、俺のCD。全部こいつに譲っていいよ」とつけたしのようにあるだけだった。蒼白な顔で遺書を覗き込んでいた彼の友人の一人が僕を見て指差し、「…『こいつ』って、こいつ?」と、小さな声で言った。誰も彼の飛び降りた先を見ようとはしなかった。校庭ではいつものように部活が行われていた。悲鳴や喧騒が聞こえてくる。友人たちは特に彼と仲が良かったわけでもないらしく、「こいつ」と言われる筋合いも彼らにはなかったらしく、友人たちは思い当たるのは僕だけと証言したらしい。変なところで正直だ。そこで、彼の両親はこうして僕に彼のCDを渡しに来た。
危うく「有難う御座います」なんて場違いな返事をしようと口を開いて思いとどまる。「ご愁傷様です」や「残念です」などと色々悩んだ末、僕は「大事にします」と小さく言った。
そのあとどうやって職員室をあとにしたのか、覚えていない。CDは、ダンボールに入ったまま僕の部屋に置かれている。何枚かは見たけど、まだ聴いてはいない。一度取り出したものも、取り出してできた空白にそのまま戻した。どうせこうしてダンボールに詰めたのは彼の両親で、彼自身ではないのだろうけど。しかし、几帳面にアーティストの五十音順になっているのは彼が棚にそう並べていたからなのだろう。アーティストの中では、左にアルバム、右にシングルが古い順から並んでいるようだった。ざっと二百枚弱はある。
屋上に出れば、多少の暖かさを孕んだ風がぼくに纏わりつく。不快ではないが、心地よくもない。彼は授業中もその耳からヘッドフォンを外さなかったのだろうか。
何か叫びたかったから口を開いたけれど、なにも言葉がでてこない。「ああ」とか「うう」とか、口が意味のない音を漏らして空気を揺らす。がくりと頭を上に向ける。濁った水色、晴れているのになんだか暗い。諦めて僕は口を閉じる。溜息を吐いた。なにとなく、僕はCDプレーヤーの再生ボタンを押す。ああ、これはいつだか彼に聴かせたCDだ。
僕は彼をどう思っていたのだろう。特に話したこともないし、況して彼は僕を苛めていた人間たちの一人だ。直接手を下してはいないけど。けど、彼に恨みの類の感情は湧かないし、最早僕に暴行を加えていた彼の友人たちにもそんな感情は湧かない。少し肌寒くなってきた。
彼に聴かせた曲。鍵盤のイントロ。僕はピアノとキーボードの音の区別ができない。知識としての音楽には疎いのだ、楽譜も読めないし音楽の授業は好きじゃない。それでも、この歌がほんとうにいい歌で、すばらしい歌だとはわかる。彼はこの歌を聴いて何を思ったろう。
僕の鼓膜と同時に心を震わせられる。揺れ動いて、突き動かされるのにどこにも行けない。何かが溢れ出そうになるけれど、それは明確な感情ではなく涙でもない。サビ。
なんだか途轍もなく叫びたかった。
リリイ・シュシュ「共鳴(空虚な石)」
(07/04/26)