はと見上げれば爽快な晴れ模様だ。なんと清清しい。わたしは左側に気をつけながら大きく伸びをする。わたしが立っているのは無骨なコンクリートの壁の前。学校の裏庭だ。今日は休日だから、校舎の中には誰もいない。校庭のほうから、運動部のやかましい声だけが聞こえる。わたしは春の心地よい風を感じようとしてみたが、すると運動部の声が意識せずともよりけたたましく聞こえてしまうことに気がついてやめた。わたしのすぐ傍では彼が眠っていた。わたしはなるべく音を立てないよう気をつける。彼は俗に言ういじめられっこだ。気が弱くて運動も勉強もできない。体格は普通。少し普通よりも細いかもしれない。彼はいじめっこたちに苛められると、必ずわたしの元に来る。瞳に涙を一杯溜めて。わたしは「女々しいぞ」とか「ちゃんと反撃しなさいよ」なんて言って彼を慰めようと密かに奮闘するが、彼は結局涙を落とす。けれどそれも昔の話で、彼はもう泣かなくなった。この学校に入学したころの幼さは抜けて、表情は険しくなった。それは彼が強くなったからなのか弱くなったからなのか、ほんとうのことはわたしにはわからない。ただ、彼は泣かなくなった。それでも、それから一度だけ彼は泣いた。ほんとうはわたしといないときに、もっとたくさん泣いていたのかもしれないけれど、わたしといないときの彼をわたしは知る由もない。ともかく、彼は泣かなくなってからも一度だけわたしに寄りかかって泣いた。ぽつりと「――って、なんだろう」と呟いた声が小さく小さく聞こえた。何について言ったのかは、聞き取れなかった。泣かなくなってから、彼はいじめなど何ともない風を装っていたけれど、ほんとうは苦しんでいたことをわたしは知っている。だけど、もう彼がいじめられることはない。わたしは左腕に気を配りながら身じろぎする。春の陽光は暖かい。今日は絶好の昼寝日和だ。どうりで、彼もぐっすりと眠ってしまうはずだ。くすりとわたしは小さく笑う。彼がはじめてわたしに泣きついてから、もうずいぶんな時が経っていた。わたしは太陽の照りつける暑い夏の日も冷たく刺さる雨の日も、傷を負った彼を受け止め、労わりと慰めの言葉を浴びせ休む場所を提供した。彼はもういじめられることはない。「おつかれさま」わたしは言う。けれど、いい加減左腕が痺れてきた。早く誰か来てはくれないだろうか。しかし誰も来なくていい、気が付かなくていい。わたしと彼はこれから先、ずっとずっと一緒にいるのだ。誰にも邪魔をされずに。ああ、しかし、すると、彼を傷つけるものもいない。それでは、優しい風を送って慰めるしか脳のないわたしは役立たずだろうか。日が傾きはじめたころ、二人の女子生徒が談笑しながら裏庭へとやってきて、叫んだ。わたしは彼が彼女たちに見られても恥ずかしくないように、身体を軽く揺すって口から飛び出ていた彼の舌をしまった。女子生徒たちは走って逃げていく。もうすぐわたしと彼の時間は終わりだ。もう彼がいじめられることはない。それだけで、わたしはこの春の日をいい気持ちで過ごすことができる。おめでとう、今まで、よく頑張ったね、よく耐えた。わたしは賞賛の言葉を桜の花びらに代えて、穏やかな顔で眠る彼の頭に降らせた。左腕がひどく重い。今年ももうすぐ春が終わる。




或る、春の日





ネタ提供・某氏
(07.05/31)