あの人は毎日わたしの家の前を通る。朝に左から右へと通り過ぎて、日暮れ前後に右から左へ帰っていく。休日は朝が少し遅い。それを毎日わたしは二階の自室の窓から見ている。
 あの人は赤いパーカーを着ている。もちろん毎日というわけじゃないけれど、それが一番印象に残っているからわたしが思い出すあの人のかっこうはいつでも赤いパーカーだ。
 わたしは車椅子で、今は学校には行っていない。以前は高校にちゃんと毎日通っていた気もするのだけど、よく覚えてない。少なくとも、友人が見舞いに訪ねてくるようなことはない。毎日ずっと、この部屋の中だけでわたしは生きる。
 朝目覚めると、壁を頼りにしてベッドの脇の車椅子に腰掛ける。少しするとあの人が左からやってくる。徐々にこちらへ向かってくるあの人を、気付かれないように机に向かっているふりをしながらちらちらと盗み見る。あの人があと十メートル程度になったときに、部屋の扉が叩かれる。「ハルカ、ごはんよ」「うるさいわ。そこに置いておいて」外にいるあの人には聞こえないくらいの声で答えると、そのまま扉の向こうはは無音になる。あの人が家の前を通り過ぎると、わたしは窓から顔をだしてその後姿を見送る。あの人の名前をわたしは知らないから、先日てきとうに作ってみた。一度そう決めると驚くほどしっくりときて、もうわたしにはあの人の名前はそれしか考えられなくなった。本当の名前なんて知りたいとは思わない。あの人に馬鹿な現代人とおなじ一面があるのなら、あの人の性格だって知りたくはない。声も表情も、想像上の世界で展開される最高のもので作り上げられた印象を壊されるくらいなら聞きたくないし見たくない。あの人は毎日わたしの家の前を通り過ぎる。
 あの人が通り過ぎるとわたしは扉の前に置いてあった朝食を食べて、それから机でノートに絵や文字を書いたり、たまにパソコンをしたりする。日々の記憶はあまりないけれど、気が付けば一日は終わっている。こうして人は歳をとっていくのだ、と、そう思う。

 今日も日が暮れた。だけど今日はいつもと違う。あの人はまだここを通っていない。夕餉もはこばれてこない。母親はどうしたのだろう。あの人が通らない。朝はちゃんと、左から右へと出かけていったのに。一体あの人はどうしたのだろう。早退でもしたのだろうか。昼間に車で通ったのならば、わたしは気が付きようもない。それとも今日はいつもと違う一日なのだろうか。けれど、けれどけれど、一体どうしたのだろう。心配だ。
 わたしは部屋の窓とカーテンを閉めると電気を点けた。もう寝ようか考えるけれど、わたしはまだ夕餉を食べていない。おなかが空いた。けれど車椅子のわたしはだれかに頼まなければご飯を食べられない。まず部屋をでるには小さな段差があるし、ここは二階だ。
 ふいに階段を上る足音がした。やっと母親が夕餉を持ってきたようだ。わたしが今の状態になってしまってから、ヒス持ちだった母はいやにわたしに従順になった。鬱陶しかった父親も弟も、わたしがこうなってからはわたしをそうっとしておいてくれる。今のこの家はわたしにとって理想の篭城だ。足音も階段の後半になったであろうところでわたしは気がつく。母親にしては足音が乱暴だ。父親は寝るときにしか二階には上がってこないし弟は自室も一階で二階にはめったに来ない。母親の足音はここまで重くない。それとも父親が今日は早く寝るのだろうか、いや、あの人はここのところ必ず十二時きっかりに寝ているはずだ。まだ九時。あきらかにおかしい。一体だれだ、わたしの理想の静かな毎日を崩すのは。
 足音は階段を上りきったところで止まる。わたしは息を潜めて部屋の扉を見た。どうする、もし強盗だったところで、車椅子のわたしは逃げることができない。どくどくと心臓が早鐘を打ち、冷や汗が身体を流れ落ちる。ガチャリとノブに手が置かれた音がして、取っ手が静かに下がる。叫びだしたい気持ちを抑えて閉じようとする目を抉じ開けると、開いたドアの向こうには男が立っていた。見慣れた赤いパーカーのその人はすっぽりとそのフードを被っている。季節は七月に入って急激に気温も上がり、どう見てもその格好は暑そうだ。普段上からは見ることができなかった角度で冷ややかな目がわたしを捕らえている。得体の知れぬ恐怖に囚われながらもわたしが作ったその人の名前を呼ぼうと口を開いたけれど、一度もその単語を口にしたことがなく喉も渇いていたので声は掠れてしまった。「久しぶり」わたしの発声が空振った直後にその人は口を開き滑らかに発声する。わたしが想像したとおりの声音で。
「元気そうなのにこのところ学校にも来ていなかった。それなりに、心配していたんだけど」「心配? 久しぶりって、あなたはだれ?」「だれだって、酷いな。あんなに激しく青春の過ちみたいに愛し合ったのに」言ってわざとらしく肩を竦める。その人の持つ包丁には黒く変色したものがこびり付いている。あれは血だ。わたしの頭で激しく警鐘がなっている。このひとは、危険だ。
「忘れたとは言わせない。ハルカ、きみだって毎日ぼくを見ていただろ」感情の欠落したような無表情で真っ黒な血がこびり付いた包丁をわたしに向ける。「わたしはあなたを知らない」「嘘を吐け。きみはぼくの名前を知っているはずだ」「し、知らない」ぶんぶんと首を横に振って否定すると、その人の眉間にぐっと皺ができて気に食わなさそうな顔になる。その顔もいつもこの窓から見て想像していたものと変わらない。けれどわたしはその人の足元に集中した。わたしに襲い掛かってくるときにわかるよう。そして振り下ろされるであろうその刃先をどう避けるか、もしかすると突き刺してくるかもしれない。様々な思考がわたしの頭の中をぐるぐると駆け巡った。溜息を吐くとその人はわたしの部屋に足を踏み入れた。ぎくりとわたしの身体は跳ね上がるけれど逃げることはできない。だらりと動かない足を恨めしく思う。しかしその人はわたしではなく部屋のすぐ脇の机を物色し始めた。数冊ノートを取り出してぱらぱら捲り始める。ノートになにを書いているかなんていちいち覚えていないしこんな状態じゃ迂闊にやめてとも言えない。ひとつのページで止まるとわたしに見せるようにつきだした。とは言えびっしり書かれたノートの文字を数メートル離れたところから見ることは難しい。その人が指すものを私の目が見つけることはできなかった。「ほら、見えないと思うけどここ。アララギ カナエ。そう偶然で被る名前じゃない」「どうして」「ぼくを忘れているのはいいとして、どうやらきみの脳はきっと都合の悪いことを忘れるように出来ているんだね。腹立たしい。知っているはずのない人間の名前を知っている、ならばそれはきみが都合が悪いと判断し忘れてしまったことのなかに『ぼく』そのものがあったと考えるの自然だ」「知らない」「知らない? まあ、意識的に忘れているんだから仕方ないね。べつにぼくのことなんて覚えていなくてまったく構わないよ。それより、その車椅子はなんなんだ」「なんだって……動かないのよ、足が」「動かない?」訝しむようにその人の目が細められて、わたしの薄手の布に隠された足を見る。「それはどうして」「どう、して」
「じゃあどうやってきみは生活しているんだ」
 そんなの、べつにこの部屋だけで生活はできる。食事は勝手に運ばれてくるし、欲しいものはネットで頼めば問題ない。「この部屋だけで? きみは風呂やトイレはどうしているんだ。食事が運ばれてくるはずがないだろ。家族は誰もいないのに」「いない?」「いない」「わたしには両親と四つ歳の離れた弟がいるし、誰も事故にも病気にもあっていないわ」「そりゃあそうだ。きみ、この包丁を見てもなにも思わないのか」言って黒い血のこびり付いた包丁を掲げる。「っまさか!」「……誤解するなよ。ぼくはそんな残虐な人間じゃない。この血がたった先刻のものに見えるか。はあ、本当にきみの脳みそは都合がいいな、感服するよ」「なにが、」「きみが殺したんじゃないか」なにを言っているのだろうか、この人は。
「きみが精神的に不安定であったり自殺願望破壊願望があることは知っていたけど、まさかここまでひどいとは。死体の腐敗のしようから見るに殺したのは学校に来なくなった前後だろう。このまえここの裏の家の人と話をしてみたけれどやはり外にも少し腐臭はしているそうだし、これから夏になれば確実に他のだれかがきみの犯行を発見しただろう。食料はすべてネットで買っていたんだね、ダンボールと領収書がたくさん一階にあった。料金はクレジットカードから落としていたんだろう、残額はわからないけど、それもいずれはなくなる。そしたらきみはどうやって生きていくつもりだ。きみは自分に都合の悪いことをことごとく忘れている。きみはおかしい、狂ってる」
「狂ってる? 初対面のあなたにそんなこと……」「初対面じゃない。ぼくだって結構ショックなんだ、きみがここまでだったなんて。……まあ、いい。きみが人殺しだろうと都合の悪いことを忘れてただの引きこもりとして生きていようとぼくには関係のないことだ」さっさと目的を全うしよう、そう言ってその人は手持ち無沙汰に包丁を爪で引っ掻いた。かぴかぴに乾いた黒い血が、その人の爪の間に詰まる。
「ぼくはきみを殺しにきた。きみの果てない自殺願望を満たしてあげるために。でも気が変わった。きみが泣いて嫌がろうとぼくはきみを殺すつもりだったんだけど、きみの好きなよう選ばせてあげるよ。このままぼくに殺されるか、ぼくを殺すか、自首するか。ぼくとしては最後が一番望ましいね。楽だから」どれがいい、と言ってにやりと笑う。殺す? わたしにはそんなことできようもない。だって包丁はあの人の手にあるというのに、おめおめ自分を殺させるためにその包丁を渡すだろうか。わたしが切りつけるのをその場で突っ立って待つのだろうか。「答えは?」首を傾げてその人は問うが、わたしはどれも選べない。またも疲れたように溜息を吐くと、その人はだるそうにわたしの前に来て、包丁の柄をわたしに向けて突き出した。目の前に差し出され、わたしも思わずそれを受け取る。
「まあいい。きみが強く望んでいないなら、ぼくはわざわざきみを殺しはしないよ。ぼくはもうきみをたいして愛してもいないんだ。どうでもいい人間のために犯罪者になるつもりもない。自首するといいよ、きみは未成年だし、その通り狂っているし、正当防衛だったとでも嘘を吐けばすぐに出て来られるだろう」淡々としながらはっきりとした音程で言い切ると、踵を返して部屋を出ようとする。「さっきも少し言ったけどきみの足は正常だよ。通販で買ったものを受け取るときはきっと一階に行っていたんだろうし、トイレや風呂だってある。ハルカ、きみは普通に立つことも、歩くこともできる」部屋の扉を開ける。そして振り返り、おかしそうに彼は笑った。「ぼくを殺すこともね」とんとん、と軽やかに階段を降りる音がして少しずつあの人の背中は沈んでいく。わたしは黒い血のこびり付いた包丁を見ていた。それから自分の眼球にそれを突き刺し、舌を切り取る痛みを想像した。それからあの赤いパーカーが血で染まる様を妄想した。その血はやがて黒ずみ、結局は、赤いパーカーには馴染まない。わたしはふらりと立ち上がると包丁を構えた。


アタラクシア
(もう悩むことはない)(わたしは)


(07/07/08)