「世界は良くなった、そう思っていいのか。ドクター・ヤザワ」
「ええ、当たり前ですとも」
「……よくもそんな戯言が言えるな。おれにはとてもそう思えない」
 都内でも有数の高層ビルの最上階。ここがおれの事務所だ。数年前の父の病死によって受け取ったものは、おれの手に余る莫大な遺産と、世界にかけて手を広げるこの会社だ。こんなもの貰っても困る。てっきり父は有能な社員に会社を譲るものと思っていた。なんでも、財産が他に流れるのを防ぐためらしい。それで、父のものは残らずおれにお下がりされた。勉強はそれなりにしてきたものの会社を継ぐつもりのなかったおれは経済学も経営学も帝王学も学んでいない。要するに凡人だ。結局おれはただのお飾り社長で、会社のことは全て社員に任せていた。社員たちが隠しもせずにおれを無能呼ばわりしていたことは知っている。

 先日地球人の大半が発狂し、八割以上が死んだ。人々が恐れていた犯罪が起こったのだ。これは歴史に残る大規模なサイバーテロである。太古の人間ならば、こんな事件で人が死ぬことなどなかっただろう。いや、昔はこんな種の犯罪そのものが存在しなかったはずだ。おれだって、父親がこのでかい会社を起こして金持ちであったから助かっただけなのだ。
 あの日世界で大きな事件が起こった。現在進行形で起こっている。おれの恋人も死んでしまった。聞いたときは悲しんだけれど、今はさほど感傷もない。元々父親が勝手に作った婚約者だ。初めは確かに愛もあったが、最後のほうはどうとも言えない。
「それで、ドクター・ヤザワ。今日は何の用でわざわざこんなところに」
 牛革張りの椅子から立ち上がって振り返ると、メタルフレームの眼鏡を直して年齢不詳の男は笑う。大体にして、この男は本当に何者なのだ。こいつもてっきり死んだものかと思っていた。そんな高機能のコンピューターを搭載しているようにも見えないが。
「実はですね、あなたに世界を救ってもらおうと思いまして」
「……はあ」
 突然馬鹿げたことを言い出した男を見ると、エレベーターが音を立てて開いた。彼の助手らしい白衣を着た男が子供の手をぐいぐい引っ張っておれと彼の近くに立つ。子供はひどく見すぼらしい格好をしていた。おれがそれに快くない表情をしたらしく、子供は敵対心を剥き出しにおれを睨む。
「今のご時世脳内にコンピューターを搭載しているのは人間の常識です。その制度を始めたころはコンピューターの性能も未発達で些細なテロで人が死んだそうですが、ここ数百年のコンピューターはそう簡単に人体に影響を及ぼすほどのテロ被害にあうことはないくらいに成長しました。四十年ほど前にコンピューターの性能が大きく変わり飛躍的に進歩したことは一部では有名ですが、一般には知られていません。新しく開発されたコンピューターは高く最も裕福な層の人間しか買えないような値段でしたから、面倒な混乱を防ぐためです。ですから、若い人でも大抵の人は皆以前のタイプのものを搭載していた。そして事件はこうして起きた。このテロで、以前のタイプのコンピューターを搭載していた者はほぼ全て死にました。まだ生きている人間も、気が正常ではありません」
「そんなことは知っている」「この子供に説明しているのですよ」
 ヤザワが子供を指差し胡散臭く微笑むと、子供は警戒するように目を細めた。
「つまり、事実上今この星の上で正常を保ち生きているのは、四十歳以下の最も裕福な層の極僅かな人間、そしてサイバーテロに相対できるソフトをインストールしているであろう犯人たちのみとなるわけです。
 あなたは不思議にお思いでしょう。何故いち研究員である平民のわたしがこうして生きているのか。あなたはこんな、悪く言えば辺鄙な高いビルの中に住んでいるからわからないでしょうが、あなたが思っている以上の数、人間はまだ生きています。
 勿体ぶらず種を明かしましょうか。わたしはコンピューターを搭載していない。それだけのことです」
 現代人として考えられない言葉におれは眉をひそめる。この社会でどうやってコンピューターなしで生きていくというのか。
「コンピューターを搭載していない? メモリなくしてどうやっておまえは生きているんだ」「人間は従来コンピューターなど搭載せずに生きていたのですから、脳が充分にその代わりを果たしてくれますよ。尤も、脳の記憶はコンピューターのように完全ではありませんが」
「信じられんな」
「わたしの世界では結構多いですよ。脳はパソコンのように故障することは滅多にない。このほうが便利なことも多々あるということです……それはいいとして、この子供もコンピューターを搭載していないわけですよ」
 その言葉に今一度子供の格好を上から下まで見やる。
「貧困層か」「ええ」
「こんな学のない人間になにができる」「ってめえ!」
 おれに殴りかかろうとした動作は瞬時に彼の助手によって制される。雨が窓を叩く音が聞こえた。触れるものを溶かす酸性の雨だ。特殊なコーティングをしていなければ、建物も数年で駄目になる。
「まあまあ、できるかどうかはやってみてからにしましょう。あなただって似たようなものじゃないですか。お飾り社長のグレン」
 悪意の欠片もないような満面の笑みを湛えて彼は言う。おれもこいつの実験動物のひとつであって期待なんて微塵もしていないと、そう言うことなのだろう。役立たずはおれも同じか。いいや、温室育ちのおれなんぞより、貧困のなか生き抜いてきたこの子供のほうが余程有能かもしれない。
「…………そうだな、悪かった。小僧、名前は」
 ぎらりと敵意をむき出した目でおれを睨むが、脇の助手に名乗るよう促された。不服そうに頬を膨らませど大人たちは見向きもしない。
「ニーチェ」
 窓の外が鋭く光って子供の金糸の髪が光る。その幼い目も。こいつとおれが世界を救う? 一体どうやって。躍起になった金持ちや彼のように生き残った学者がどうにもできないことを、この英才教育を受けただけのお飾り社長と貧しい子の二人でやれと言うのか。彼は完全に遊んでいる。おれが死んだって彼は痛くも痒くもない。
 世界を救う、確かに。少なくなった社員の信用を取り戻すには、充分過ぎる事象だろう。ただの金持ち坊ちゃんのおれに、そんなことができるだなんて。誰がそんなことを考えようか。俺とてそうだ。

「“神は死んだ”、ね。おもしろい」
 くだらない。

 遠くで雷の落ちる音がした。


グレンステッドとニーチェ



(07/07/28)