無機質なコンクリートと強い風。
「俺はヒーローなんだ」「ふうん、それがなに」
県内では中の下、進学校とうたってはいるが毎年国公立大学に進学するのは指定校推薦枠のある県内の大学に一人だけ。そんな情けない高校の屋上に二人は立っていた。
一際大きな風が吹き、柵の向こう側の水江は乱れる髪も気に留めずスカートを申し訳ていどに押さえる。一方柵のこちら側にいる前田は棒立ちのまま、僅かにわずらわしそうに目を細めた。学校のレベルこそ高くはないが、わざわざ授業を抜け出して保健室以外の校内でサボろうとするやつも特にはいない。授業中は皆、各々の机に座って授業をうけている。なんというべきか、平和な学校だ。
その平和を水江は乱そうとしている。大惨事だ。全校集会ものだ。平和はヒーローが守らなければならない。前田は幸か不幸か、自らが遭遇した現在の状況にどこか浮き足立ちながらも、心の奥底ではなにひとつ面白くも嬉しくも楽しくも感じてはいないという、なんとも裏腹で不思議で前田自身不可解な心境に陥ってはなはだ困惑していた。
まさに飛び降りんとしているところを、ぽっと出の男に妨害されて水江はひどく憤っていた。誰がいようが無視して飛び降りてしまえばいいじゃないかと言われれば確かにその通りであるのだが、死に際くらい静かにいきたいものだった。こんな気分では今はもう死ねないような気さえする。しかし出直そうにも、柵の向こう側に立っている男のせいでなんとも帰りづらかった。水江は前田を初めて見たが、先刻の一言で前田のおおよそを理解した。前田は中二病だった。
前田は幼い頃からヒーローが大好きだった。幼稚園、小学校低学年と仮面ライダーや戦隊ヒーローものの番組を齧り付くように見て過ごした。ヒーローになりたいと、前田は毎日そればかり考えて生きてきた。しかし前田は世の中とテレビのヒーローの住む世界はまったくの別物であると、ずいぶん早くから理解していた。テレビにでてくるような、大々的に人を殺す異形なものたちなど世界のどこにも存在し得ないのだ。前田が本当に崇拝していたヒーローは、近所の比呂さん家のイズムおにいさんだった。イズムは見たところ華奢でなよい男であったが誰もが認めるヒーローだった。ヒーローには悪が必要で、悪はアオリとかいう人だった。その人は本当に悪い人で、目についた範囲で考え得る悪事はすべてを実行するという残虐な思考を持っていた。だから彼が悪事を働かぬよう、イズムはわざわざ常に彼の近くにいるのだ。以前彼が恋人らしき女の人と一緒に街を歩いていた。人を不幸にさせておきながら自身はのうのうと幸福を満喫する彼の生き様に、前田は言いようがなく腹が立った。すれ違いざま、彼の服にひっそりと食べ終わったガムをなすりつけた。なんだかとてもむなしかった。こんなのは違う、そうわかっていた。
イズムおにいさんのような、かっこいいヒーローになりたい。前田は常々そう願っていた。イズムはアオリの悪事をできる限り未然に防ぎ、事後処理をし、それによって困ったひとたちを助けた。前田がイズムを知ったのは幼稚園のときで当時イズムは小学校中学年だったが、当時からアオリが悪でイズムが善であるその関係と定義式は変わっていない。ヒーローについて考えつづけて前田はまず、悪がいなければヒーローは機能しないことに気がついた。
それからも前田はヒーローについて考えた。なにをどう考えて、結局どんな結論が出ているのか、前田はほとんど覚えていない。前田は頭がよくなかった。その日でた結論は翌朝目が覚めるときにはすっかり忘れていたけれど、それでも毎日ヒーローについて考えた。そもそも昨日でた結論を忘れたことさえも忘れていたからだ。
前田はこの日も、さっぱりわからない数学の授業を投げ出して屋上で考えていた。入り口からは影となる場所にいたから、屋上にでてまっすぐ歩いていった水江には前田の存在は気付かれなかったのだろう。前田はぼんやりと水江を見ていたが、水江が柵を乗り越えたところでようやく水江の目的に気がついた。
自殺なんて考えたこともなかった前田は慌てて引き止めようと立ち上がったが、ぎりぎりで声を上げることを思い留まった。肌寒い風が吹き荒む屋上の柵の向こう側、名前も知らない女の子は前田に背中を向けて立っていた。校則をやぶって肩よりずっと伸ばされながらまとめていない黒く長い髪は揺れ、その隙間から時折真っ白なうなじが垣間見えた。そのコントラストと、いまいち気分の優れないくすんだ空と灰色の町を背景に存在する彼女はなんだかすごく綺麗だ、そうぼんやりと思った。いつ飛び降りるかもわからない彼女を見ながら、足りない頭を総動員し前田は考えた。
ヒーローは人の幸せのために存在するのだ。それとイズムだけが前田にとって絶対と言える真理であり、それ以外のことは軽率に信用してはならないことだった。地球はどこかで途切れて地獄に続いているかもしれないし、一足す一は三であるかもしれなかった。前田はなにものをも疑うことをやめなかった。しかし答えはでなかった。混乱した。前田は水江に話し掛けてみることにした。前田は誰もが認めるポジティブ人間だった。
「死ぬんですか」唐突な声と直球すぎる問いかけに、たいそう驚いた表情をもって水江は振り返った。
それで、冒頭に戻る。
なんの策略も考えもなしに水江に話しかけてしまった前田は、話しかけながら考えるという困難な局面に陥ってしまった。話すことと考えること、同時にふたつのことなんてできるはずがない。前田は自分の浅はかさを一瞬だけ悔やんだ。水江は現在の状況をただ面倒に思った。
二人の間を沈黙が泳いだ。前田は考えていた。死にたいなどと思ったことのない前田にとって、水江の思考はどうやっても理解できるものではなかった。
死ぬんですかの答えは返ってこなかったけれど、死のうとしていることは一目瞭然だ。ちょっと風に当たるために屋上の柵を乗り越えたなんてことも有り得なくはないのだろうが考えにくい。
「…ねえ」「うえ?」
女生徒の不機嫌そうな声に前田は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「邪魔しないでくれる」冷淡な声は無情にも前田を突き放す。
「正義のヒーローの仕事はね。有名だしょ。言わずもがな、『人々の平和を守ること!』なんだよ。俺はヒーローが守るところの『平和』について考えた。平和ってなんだろう。辞書なら何百回も引いたから、流石にもう覚えたよ。平和って、端的には『敵がいないこと』だよね。『敵』というのは『妨害者』。さっき屋上で、俺はおねーさんが死ぬのを止めようとした。だけどそれって、そうしたら、俺はおねーさんにとって『妨害者』なのじゃないだろうか。そうでしょ。おねーさん不機嫌そうな顔してたし。…そうだ、おねーさん名前は? ………ミズエ? へー変わった名前。そんなことないのかな、俺は今まで会ったことないけど。あ、でも今まで一人しか会ったことない名前ってたくさんいるよね。うん。そっかそっか。
えーとそれで、俺は今までたくさんヒーローについて、平和について考えたんだよ。数学についてならミズエさんのが一億万倍できるかもしれないけどさあ、ヒーローについてだったら俺のが絶対たくさん考えてるし、絶対たくさん知ってるんだ。なのにわからないんだ。どうしたらいいのか、全然わからないんだ。ヒーローはすごい。かっこいいし、えらい。人間が悲しむ要素を消すんだ。だけど、俺はやっぱり考えるんだ。テレビの戦隊物の、敵がいるでしょ。その敵の、奥さんや子供が普通にそのへんのスーパーで買い物してるような、善良な市民っていうか、普通の人だったらどうする? それでもヒーローは敵を殺すんだろうね。それが善だから。でも、それでそいつの奥さんや子供は悲しむんだよ。『あんなことをしたんだから、仕方がない』と思いはするのかもしれないけれど。
『正義』がわからないんだよ。ミズエさん。俺はあなたの平和を守るために邪魔をしてはいけなかった。でも、だけど、そうなんだけど。やっぱりどこかで思うんだ。だって、俺にはやっぱりわかんないよ。死にたい人の気持ちなんか。この世はたしかに、つらいことっていっぱいあるのかもしれないよ。あるよ、俺だってつらいよ。でも、だけどさ、はあ。やっぱり、『止めて欲しかったんじゃないのかな』って、思ってる。そうだったら、ごめん。そうじゃなくても、ごめん。
ごめん」
滑るように階段を降りて靴も履き替えずに、前田は校庭に立っていた。あれほど大きなものが落ちて肉や臓器の飛び散る音がしても、誰も気付きはしなかった。それでももうすぐ鐘が鳴って誰かが彼女に気がつくだろう。
前田は静かに泣いていた。けれどそれは『水江が死んだこと』が悲しいのではなく『誰かが目の前で死んだこと』が悲しいだけなのだと、ちゃんと理解していた。「止めて欲しかったのかもしれない」授業終了まで三分を切って、前田は校舎へ足を向けた。悲しくてたまらない心のうちでも、どこか特殊な体験をできたこと、今後背負うべき業ができたことをどこかで喜んでいた。そう自覚してしまうと、前田には一年に一度来るか来ないの自己嫌悪症候群が波のようにざらざらと押し寄せてきて逃げるように駆け出した。たりない頭で理屈っぽく考えすぎて、なにが悲しいのかもわからなかった。考えたくない考えたくないと前田は考えた。
前田は邪魔なんてしないと答えたときに水江が見せた表情を思い出した。それが綺麗だと思ったのも、彼女に死が近かったせいなのか単純に彼女が美しい人間だったからなのか、前田には判断できなかった。水江は少し間違っていた。前田は中二病よりも、裏中二病のほうが強かった。中二病を気にしすぎるが故に何もできなくなると言うそれだ。前田はイズムを思い出した。ヒーローは幸せじゃないのだと思った。それでも不思議とヒーローになりたくないとは思わなかった。前田にはもう、それ以外の目標は考えられない。前田は憂鬱だった。考えるべきことが増えた。
正義論:ヒーロー考
(ただしさとはなんですか)
(08/01/05)