「来てくれたんだ」
「いちおう、腐れ縁ですから」「はは、きっとあいつも喜んでるよ」  取り出した煙草に火を点けて、彼女を見ると目が合った。すぐに逸らされる。
「来てることには気付いてたんだけど、葬儀場ではなかなか話し掛けられなくてさ」
「喪主、ですもんね」「身寄りがないからね、俺もだけど。最近は多いらしいよ、友人が喪主するの」
 弔問客の俺を見る目は異様だった。当たり前かもしれない。その目の中にはあからさまに俺を蔑んでいるものもあった。おまえが彼を殺したんだろうと。ひどい言いがかりだ。思われても仕方がないから、わざわざ否定もしないが。
 弔問客の年齢は幅広かった。老人から子供まで。きっと生前の彼に助けられた人たちなのだろう。予測はしていたが、それ以上の数だった。椅子が足りなくなって慌ててパイプ椅子を出したくらいだ。それでも幾らか足りなくて、数人は立ったまま経を聞かせてしまった。なんだか悪い。
 しかし葬儀が終わって火葬場へ行くとなると、そこまで時間を割く人間も彼と関わりの深かった人間もおらず、一気に寂しくなってしまった。あいつは友人がいない。俺もだけど。
「なんだかんだ言って、似たもの同士なんじゃないですか」
「まあね。あいつは俺たちを運命の双子って言ってた。恥ずかしい表現だろ、少女漫画みたいで」
 小さく笑うと、彼女も似合わないと笑った。煙草の煙がゆっくり立ち昇って、そういえば副流煙は主流煙より身体に悪いんだよなと申し訳なく思うものの今更消すのも不自然で、怪しまれぬ程度に顔を背けて煙を吐いた。しかし再び見た彼女の顔は少し笑っていたから、もしかすると気がついていたのかもしれない。ばつが悪い。
「ヒーローがいなくなって、これからどうするんですか」
「どうもしないよ。今まで通り。ああ、でも、もうすぐ俺も大学を卒業するしミヨも大学は行かないそうだから、うまく就職できたら結婚するかな。あいつの遺産でも使って」
「遺産なんてあるんですか。ヒーローってボランティアなんじゃ」「ボランティアのはずだけど。そのへんの仕組みは知らない。俺は悪者だからね」
「どうしてアオリさんに相続されるんですか」「さあ、気紛れじゃないかな。なんで俺なんだろうね」
 こんなことを言うと、どうせまた金欲しさに俺が遺書を書き換えたのだろうと疑われそうだ。しかし彼女はそうですか、と納得した風に頷き、黙った。彼女はあいつが偽善者であることを知っているから、俺が偽悪者であることも知っているのだろう。
 短くなった煙草を灰皿に押し付ける。結局ほとんど咥えていただけだった。視線を左にやると、幅の広い扉のひとつの前にミヨが立っていた。あの扉の向こうの部屋で、あいつの骨を拾うのだろう。ミヨはあいつが死んだことに少なからず責任を感じているようだった。もしかすると、こんなとき彼氏である俺は彼女の傍にいてやるべきなのかもしれない。あいつが死んだことは誰の所為でもない。強いて上げるなれば、相変らず思慮の欠けていた俺が悪い。しかしだからと言って、あいつが死ぬ必要はなにもなかった。きっといつもの気紛れだったのだろう。もともと刹那主義の虚無主義であったし。つくづくヒーローには向かない人間だった。
「サキさんは、どうして此処に」「……どうして」
「あいつが貴女にどう接していたのかは見たことがないけど、あいつのことだからまた鬱陶しく付き纏ったんだろう。貴女が自分を好きだと設定した身の振り方をしていたみたいだし」
 今までのことを思い出したのか、彼女は遠い目をして苦笑した。予想は当たっていたらしい。
「迷惑かけただろう。彼氏もいるんだし」
「いえ。別れました、昨日」「え」
「べつに、あの人のことは関係ないです。このところ、いえ、もう結構長いこと噛み合わなかったから」
 たまに酒が入って正常になったあいつは、俺に彼女への叶わない思いの丈を話した。彼氏とのことも。ずいぶん仲の良さそうな話だったけれど。あいつの主観が入っていたのだろうな。
 なんと言うべきだろうかと思案する。彼氏と別れたのであれば、それなりに落ち込んでいるだろう。迂闊な言葉もかけられない。応用力のない自身にがっくりして言葉も見つからず上手い言葉を探すことは諦めてしまう。彼女を見ると、どこか遠くを見ていた。視線の先を見ると、コントラストのはっきりしたやたら数字の大きい時計が壁にかかっていた。がちり、と長針が動く。
「感傷、でしょうか」「かんしょう」間抜けのように彼女の言った言葉を繰り返す。よほど間抜けな声だったのか、来た理由ですよと彼女は言った。
「なんと言うんでしょうね、この感情。自分でもよくわかりません。
 よく、なくしてから本当の大切さがわかるなんて言いますけど、あれって嘘だと思うんです。本当に大切だったわけでもないのに、なくすとすごく大切だったような、なくしてしまって勿体ないような気分になるんです。だからこれは錯覚です。飽きずに毎日、ほんとうに鬱陶しかった。最初は彼氏にも誤解されたし、今も何人かの友達は信じてない。あの人のファンだとか言う先輩に水をかけられたこともあるし、もう本当に散々です。あんな人、全然好きじゃなかった」
 がちり。ああ、と俺は息の抜けるような相槌を打つ。わからなくはない。どのくらい大切だったのかわからなくなる。俺は一体どのくらい、あいつが大切だったのだろうか。あいつはどのくらい俺が大切だったのだろう。
 沈黙が流れる。忘れた頃に鳴る長針の音が耳障りだ。
「でも」
 顔を上げる。彼女はまだ時計を見ていた。表情は窺えない。
「嫌いじゃなかった」
 うん、掠た返答は届かなかったかもしれない。彼女はすくと立ち上がると、帰りますと言って歩き出した。俺も立ち上がってあとを追う。
 がたがたと音を立てて自動ドアが開き、滑り込んだ冷気が身体に纏わりつく。
「骨上げは」「しません。あの人が骨になったところなんて見たくないですから」ああ、その通りだ。俺だって見たくない。
「あの人は、ずるいです」心持ち彼女の歩調が早くなる。「勝手に人の前に現れて、勝手に」一歩先を歩く彼女の表情は依然わからなかった。吐く息が白い。「いなくなる」ふわりと千鳥格子のマフラーが不自然に浮いた。考えるより先に腕が伸びていた。
 彼女の腕を掴む。足を取られ、倒れる一歩手前で彼女は踏みとどまった。「あ、」そこでようやく己の過ちに気がつく。いいことをしてしまった。振り向いて俺を見上げる彼女の顔には、凍結した地面に足を取られた羞恥よりも驚嘆が浮かんでいた。それは俺が善事を働いたことについてのものではない。
「なにも起こりませんね」「……ああ」彼女が態勢を整えたことを確認し、手を離した。
 ほんとうだ、なにも起こらない。小さく頭を下げて、今度こそ彼女は去っていった。俺ももう追わずにその背中を見送る。あいつが好きになるはずだ、よくわからない人だった。
 それにしても、なぜ彼女を助けられたのだろう。いつもならば絶対うまくはいかないはずだ。一体どうして。俺はなにも変わっていない。あいつが死んだからなのだろうか。双子の片割れを失って、運命は機能しなくなったのかもしれない。よくわからない。煙突からは灰色の煙が棚引いていた。あの灰色にあいつの原子が紛れているのかもしれないと思うとなんだか悲しくて、気持ち悪かった。
 再びがたがたと鳴る自動ドアを潜ってミヨの隣りへ行く。俺とミヨの他には、あいつを崇拝していた近所の前田くんしかいなかった。前田くんはずっと前からヒーローであるあいつを尊敬していて、つい最近までは悪者である俺を目の敵にしていた。前田こんが本当にあいつを慕っていたことは知っていたから、あいつの死を伝えるのも一番心苦しかった。今は落ち着いているようだけれど泣き明かしたらしい真っ赤な目はぼんやり宙を眺めている。たった三人の骨上げだが、彼がいて少しはあいつも救われたかもしれない。けれど、やっぱり、あいつは孤独だ。
 音を立ててゆっくり扉が開いた。あいつの骨を見ることにまだ躊躇いがあった。入ろうとする素振りを見せない俺を見かねて、一番近くにいた前田くんが扉をくぐった。ミヨが心配そうに俺を見上げて袖を引っ張る。大丈夫となるべく笑顔で返して頭を撫でる。もしも本当に運命が消えたのなら、この街をでて彼女と結婚しよう。部屋は五人だけでいるには居心地が悪いくらいに広かった。係員が手短に拾い方を説明し、俺と前田くんに箸を手渡す。まだ若い、それも健康な男の骨だ。ほとんどそのまま人間の形に残っていた。事務的な作業だ。足の骨から順に、黙々と骨壷に入れていった。唯一原型を留めていないほど粉砕している頭蓋骨が痛々しかった。強い衝撃を受けてか、心なしか首の付け根の脊椎や鎖骨はひしゃげていた。あいつの頭は粉々に吹き飛んでしまった。端正な顔をしていたのに、もったいない。
「イズム、さんは」
 左手で額に浮かんだ汗を拭いながら掠れた声で前田くんが言った。炉の熱の所為か部屋は暑く、喉はからからに渇いていた。
「確かにけっこう酷い人だったし、正しくはなかったと思います。それでも、俺の理想で、憧れの、ヒーローなんです」
 なかなか掴めない小さな骨と格闘する手を休めて顔を上げると、先刻もう涙は絞り尽くしてしまったかのように見えた泣き腫らされた前田くんの目から新たな液体が止め処なく流れていた。暑い。格闘している骨の欠片を見下ろすも、視界がぶれてうまく輪郭がつかめない。「アオリくん」ミヨの手が伸びてきて、俺の箸を優しく奪った。
 ぐらりと視界が揺れてよろめくように一歩下がった。ばか、ばかだ。イズムはばかだ。たいして意味もなく、なんとなく思いつきだけで死んだりなんかしやがって。うまく息ができない。後先考えない、その場だけで行動しやがって。後悔してないのか、死んだこと。全然とか答えそうだな。腹が立つ。むしろサキさんが少しでも悲しんでくれて嬉しいとか言いそうだ。くそ、ばか、あの世で会ったら殴ってやる。やっぱり俺は、おまえが大切で仕方がなかったよ。ばか。


さよならヒーロー



(08/02/08)