足音は消して自動ドアの隙間から抜ける。ひゅうと肺を満たす空気は爽やかで冷たい。
戦いは店に入ったときから始まっている。自動ドアをすり抜ける一歩がスタートだと思うのは間違いだ。機械なんて穴だらけなんだ。オレはひたすら走る、はしる。両手の隙間から零れ落ちる品物には目もくれない。どうせ落ちたものの指紋を調べたところで、オレの指紋は役所に登録されていない。オレは存在しないはずの人間なのだ。貧困層は人間じゃない。街の外は世界じゃない。
肩を押し入れ人を掻き分けただただ走る。捕まったら人生の敗者ですべての終わり。止まるな背後に気を取られるな、気にするな。走れ。走れ。ばらばらと腕の中から奪った品物たちが落ちる。ばらばら、ばらばら。どんどん軽くなっていく腕の中に思わず涙が垂れ落ちた。だけど足は止められない。死んだら負けだ。思考は無駄だ。今は足だけを動かせばいい。行き交う人にぶつかりよろけても倒れはしない。倒れれば死んでしまう。体制を立て直し走りつづける。随分空いた腕で拭った頬が冷たい。泣くのも負けだ。泣いてはいけない。汚れた服で強く顔を擦る。その間も足は止めない。腕はどんどん軽くなる。いやだ、いやだいやだ。
足の感覚がなくなっていく。それでもオレは走らなければ。止まれば負けだ。捕まってしまう。走って走って、
「速いね」
オレのすぐ横にぴったりとくっついて走りながら、あいつはそう言った。じゃあ速いオレに着いてきてるあんたも速いよ。息が切れて上手く言えなかった。なにより街の人間と話すことへの嫌悪感が強かった。街の人間はオレたちを見下す。人間だとは思っていない。そう思っている街の人間をオレたちも見下す。にへらと間抜けにあいつは笑った。ぼくは大人だから子供より速いのはあたりまえなのさとのたまった。なんだか馬鹿にされたような気がして速度を上げるも子供のオレにあいつを撒くのは無理だった。走れど走れど平気な顔をしてあいつはオレの横にぴったりと並ぶ。暇人だ。
オレは走らなければならない。あいつよりも速く走れるようにならないと。いつあいつの気が変わってオレを捕まえ警察に引き出そうとするかもわからない。だからオレは誰にも追いつけない速さで走らなければならない。はしるはしる。高価そうな置時計が音を立てて落ちた。腕の中にはもうなにも残っていない。オレは走りつづけなければならない。人ごみをかいくぐって。逃げるんだ。あの店の店員から。オレを蔑む街のひとびとの冷たい目から。捕まれば命はない。両隣に並ぶ店が途切れて海のように広大な視界が開がって、表通りの広場に出る。
強い風が吹き抜けた。がらりと開かれた表通りに喧騒はない。静寂。盗んだ商品をこっそり買い取ってくれた裏に通じる馴染みの店のシャッターは降りて、店頭に並ぶ胡散臭いものたちも今はなかった。腕の中は空っぽだ。振り返ると今来た道にも誰もいない。ああ。ぐらりと身体が傾いた。
そうだ。この街には誰もいない。
倒れた身体に想像したような衝撃はなかった。視界が暗い。見上げると、あいつとは正反対の無愛想な顔がオレを覗き込んでいた。「クソガキ」「……おっさん」「グレンステッド。貧困層の人間は言葉も話せないのか」「死ねおっさん」「黙れ」
広い広い表通りに人の気配はない。この街の人間はあの日死に絶えたのだ。醜い怒声を撒き散らしていた店員も、毎日犬を散歩させていた高慢そうなオバサンも、ものを投げオレを疎外していたガキたちも。この街の住民たちは、すべて死んだ。死んでしまった。もちろん、あいつも。
「静かだな」顔を上げ、街を見ていたグレンが言う。「静かだ」
不本意にも支えられていた身体を起こし、グレンの胸に額を押し付ける。不本意だがまだましだ。それでも声までは聞かせない。「ニーチェ?」しかし肩の震えまでは止められなかった。微かな空気の動きがわかる。「……ったく」小さな溜息と悪態。なにもないよりはずっといい。
「あまり心配させるな」照れ隠しか多少ぞんざいにグレンはオレの頭に手が置いた。その手があまりに冷たくて、オレは涙を止められなかった。泣いたら負けだ、口の中だけで繰り返す。
凍る街
(07/10/15)