アスファルト劇場
あおいはベースと充電式アンプと充電器、レモンはキーボードとスタンドのバッグを抱えて早歩き。秋も冬も短いけれど、とりわけ夏はもっと短い。朝も昼も夜も短い。だからわたしたちは急がなくてはいけないのだ。早歩きのあおいがぐるりと振り返って首をかしげると「ボランティアかな」と言った。あうう、ほんといいこだなあおいって!
「んーん、レモンは全然へいきなんだ」わあとバッグを頭上高く掲げてみせる。「みた」それならいいよというようにあおいも笑ってむきなおる。今夏蛍光ブルーに様変わりしたあおいの髪はやっぱり鮮やかで、これでもかと太陽のひかりを跳ね返す。なんぼんも刺さった同系色の青いピンがひときわ。魚子ちゃんと兄妹みたいだね。あおい以外の人には思いつかないようなファッションセンスの薄い背中をわたしはぱたぱた追いかける。車通りの多いひろい通りにでた。排気ガスと夏のはじまりのにおい。
待ち合わせた場所から十分すこし。あおいが急に立ち止まった。並木通りは熱中症にならなくてありがたいですがどうにも暗くていけないな。レモンはレモンだから太陽がだいすきだよ。「きいて」ベースを肩からおろしてわたしを見る。わたしはあおいの見つけてきた場所をしなさだめするようにぐるぐるとみまわした。ひろい公園だった。パフォーマンスも禁止されていない。明るくて日の光は差しているけれど影の具合もちょうどよい。近くには喫茶店もあるので疲れても安心。コンビニも近い。駅も近い。もちろんあおいが見つけてきた場所なのだから悪いはずがないのだ。レモンはあおいをこれでもかというくらいに信用して信頼しているし、そうしないことはありえない。わたしたちは仲良しの天才だ。「あーちゃんはさいこうに青いね」褒めれば「心ある魚。某は、水」とわたしを指差して得意げだ。わたしは早速キーボードを取り出しにかかる。そうする間にあおいもチャックをじいいと開けてベースを取り出した。あおいの動きは滑らかで自然で無駄がない。つまるところ彼そのものが芸術作品のようなのだ。アンプのスイッチが入って軽やかなノイズが初夏の空気に溶けていく。開いたスタンドの上にキーボードを乗せて電源をつないだ。これでもかとペイントを施されてもとの色がわからないおなじみのベースが弾かれる。ポンと飛ぶようなキーボードの電子音。天気よし、ベースよし、キーボードよし、雲よし、空よし、レモンよし、あおいよし、あおによし、なら、国内、ぜんぶよし。よっしゃーみなぎってきた。みていろやっくん今日のレモンは夜のおまえよりあついんだぜ!
「『まぼろしゲノン』!」「領空」
あおいのプレイはレモンの友達だ。リズム隊なのだから音楽の下地はもちろんのこと、ギターのようにうたうこともできるのだ。その五本の弦はあおいの声帯になったように話して歌ってたくさん笑う。ときには嗚咽だってあげる。五線譜を、二本のギターとドラムの中を、縦横無尽に駆け巡る。まじりけなしの無邪気さだ。今はわたしのキーボードの中。あちらに顔をだしてはこちらに現れる。あああ、翻弄されている。それでいてその無邪気さは、計算されたかのようににんげんの心地よい部分やよわい部分を刺激してくるのだ。空をも飛べてしまいそうなきもち。衝動は欲望にまみれながらもストイック。事実、わたしの声は空を飛ぶ。
通して十曲ほど演奏して、いったん休憩。休日の公園の人通りはなんとも言えぬかんじであった。多いといえば多いのだけれど、少ないといえば少ないか。こればかりは価値観のもんだいだ。曲も尽きそうだし新しい曲へのいんすぴれーしょんも兼ねてセッションでもしようかしらとあおいを見る。顔を見合わせてこまったものですね。道中買った甘ったるい紅茶を飲みながら、わたしがぱっと手を下げるとあおいは逆に手を上げる。左にすればあおいも左。突き出された中指と小指を腕を伸ばして掴む。意味はない。ふとあおいがわたしの向こうを見て首を傾げて、掴まれていない腕をぶんぶん振った。「あおみどりさんあおみどりさん!」「えっ、ミッチー」振り返ってあおいの視線の先を見るとたしかに。よく見た青だ。「うわーミッチー! ミッチーミッチー!」両腕を振ってぴょんぴょん跳ねればさすがに呼ぶ声が聞こえたのだろう、そのひとは立ち止まってこちらを見た。そしてしょうしょう意外そうな顔をしてこちらへ歩いてくる。
「なにやってんだ、おまえら」
「えへへー」「あおみどりさんのまね!」そう高らかに叫んで聴き慣れたイントロのメロディライン。「お」かっこベースバージョン。シナプスお馴染み、『誘拐の夜』だ。「やるな」 楽しそうに肩を揺らしてミッチーも右肩のギターに手をかける。「でも、まだまだだ」ギターを小さなアンプに繋いでピックを持つと、一つ大きな深呼吸。エフェクターのなにもかかっていないシンプルな音が流れ出す。あおいはミッチーの指から生まれる一音一音に耳を傾けその動きを追っていた。レモンはギターは触ったこともないからまったくわからない。あおいだって弾けるのはベースだけだ。でもその指の動きを見れば、なんとなく音の高低の距離がわかるらしい。「フレーズ、三回目のとこ。ベースじゃ和音全部は拾えないから、最初は上拾って、途中落ちるとこは真ん中いってまた上に戻ったほうがそれっぽく聞こえるかも」ミッチーが問題らしいところをもう一度弾いて、あおいがこくこくと頷いた。
「録音しました。再生、しますか。します」
すう、と息を吸って数拍。おなかと胸に響く音であおいはさっきよりもずっととても忠実に『誘拐の夜』を再現した。満足そうなミッチー。ミッチーが嬉しいならレモンも嬉しいよ。なんだかとてもシナプスで演奏したくなってきた。次の練習はいつだろう。
「路上ライブってやつか」「っていうか、うーん。ね」「の」あおいと顔を見合わせる。とくになにも考えていないよ。前々から一緒に音楽してみたいねって話はしていて、最近成り行きで二人でスタジオに入ったら楽しすぎてスタジオは狭すぎて閉ざされていて空の高さが好きで、この街の空が狭いとは使い古された言葉でありますがスタジオよりもライブハウスよりもずっとずっと広くて高いのです。高層ビルで区切られた空は仮令空としては狭くともその分通る風は勢いを増して吹き抜ける。そのまま宇宙までも届く。すばらしいことではないですか。
「調子よさそうだな。二人、気も合いそうだし」「合う合う」「ちき」「一緒にいるところ初めて見た」「そうだったっけ」「多分」それはもしかしなくても多分じゃない。
「ギター持ってるならミッチーもやってこうよう。スタジオに行ってもいいでよ。ねえあおい」「うるち米。あおみどりさんはあおみどりだけれどあおみどりさんであるからにしてレモンと某との浸透度は絶頂であるよ」「うん」あおいがここまで言うのも珍しいことだ。それだけミッチーのギターの腕は確かということだろう。まる。「待てよくわからないんだが」「インスピですよインスピ。ミッチーは頭が固いからねえ」「褒めているらしいことはわかった」「あおいがここまで言うんだからもうやってくしかないね」「やってきたいのは山々だけど。スタジオって高いんだよな」「今更じゃんね」「先に立たず」「ここんとこ妙に予定合ったから普段より練習多かったし、今月金欠なんだよ」「バイトすればいんだ。どうせ家でもギター弾いてるか一人でおっとなんでもないなんでもないよレモンはよい子だからねねね」「え、なんだなんだ」「レモン。やましこやましこ」「ごめんごめん。口が滑ったったよ」うっかりさんだねと笑うわたしたちを見てミッチーが首を傾げる。わからないように言っているんだよ。「べつに、家でギターしか弾いてないわけじゃない」言いながらミッチーはギターをケースにしまった。慣れた手つきだ。
「帰っちゃうの。レモン、ミッチーとしたいな」
チャックを上げていた手が不自然に止まった。眉間に皺を寄せて、そういうことを言うなって。うあ、ミッチーやらしいこと考えてる。はしたないですよ。「言い方を、もっとさ」「あいら」「まあ、なんでもいいですのよ」ケースを閉め切って右肩にギターを抱え直したミッチーの耳が赤く染まっているのに気がついて嬉しくなる。青いのに赤くなるとは一体どういう了見だ。ねえ。
「……ちょっと待ってろ、この辺のスタジオ、今空いてるか訊いてみる」ぐしゃりと暗い青色の髪をかきあげて携帯を取った。よしよし。ミッチーは本当に可愛いね。その間にわたしたちも荷物をまとめることとする。
「雨の夜のことについて」
角がひっかかってキーボードをケースに入れるのに四苦八苦しているとあおいが話しかけてきて、ああそういえばと思い出す。
「ミカンにね、頼んでみたんだけど嫌だって」「弓だ」「でねえ、ミカンが駄目だったらもういいかなあって思ってたんだけど、でもドラムあるとしまるだろうし。ゆるゆるなのもこれはこれで味なんだけど、ライブハウスでするならね」「未来があるよ」「うん、そうするつもり」携帯を耳から離したミッチーが少し歩いてもいいかと訊ねてくる。構いませんですのよ。荷物が重いけれども。「キーボードと充電器は駅のコインロッカーに預けてこう。スタジオのでいいだろ」「ひゅう気が利くね。金欠じゃないのかい」「そんな数百円もだせないほど切羽詰って……いなくもないけど、出せないこともない」「レモン百円だすよ」「コンドリア」「あおいもだって」「そうしてくれると助かる」
それでわたしたちは二人から三人になって歩きだす。駅は公園を突っ切った向こうから地下道に下りてすぐだ。舗装された道の不思議な歩き心地。「ミッチー、次の雨離の練習っていつ」「おれが出るのは水曜だな。五時」「一緒行ってもよいかんじ」「いいんじゃないかな。なんでまた」「ちょっとばかしアスに頼みたいことが」「そっか、一応りんごに言っとく。それ、持つか」わたしの手の中の荷物を見て言う。基本的に人には持たせないのだけど、行きと公園ので結構疲れているし、ミッチーにならいいかもしれない。「どーぞ」「しょ、重いな」ギターを肩に掛け直してわたしのキーボードを抱える。いくらなんでも重そうだ。「じゃあレモンがギター持ったげようか」「あー」「ミッチーの奥さん傷つけたりしませんよ」「割と重いぞ、レスポール」「キーボードよかましだよ」ほら、と昔からミッチーの右肩をほぼ常に占拠しているレスポールくんを渡される。ずしりと腕に初めての重み。存外簡単に了承したね。絶対人になんて持たせないかと思っていた。わたしだからと、そういうことだったりしちゃうのか。嬉しくなる。
「あーあっつーいなあ」「春が終わって」「水風船がしたいよ」「打ち水と、蜃気楼」「なるほど」
傾き始めた太陽と淡いコントラストの陰影。来週末にでも集められる限り人を集めて水風船をしよう。誰が来てくれるだろう。「また来ようね、あおい」演奏をしにでも、水風船をしにでも。花火だっていい。「当然」夏は短い。だからいい。わたしはこの夏にこの公園で展開し得る色々を考えた。それはさながら、アスファルト劇場。