あなたは今まで生きてきて、「自分はおかしい」と痛感したことがあるだろうか。
 大概の人はないであろう。あったとして、飽くまでそれは独断であろう。真偽のほどは定かじゃない。自分で思って、多数の他人に言われて、初めて人間は異質になる。その質は大きく分けて、道端を歩くだけで孤立する類と、もっと内面に異形を抱える類のふたつ。例えばぼくの所属しているバンドのベーシストであるあおいなんかは、目に見えた前者の変人だ。そしてぼくは、後者。
 性癖というのは、生まれつきの病と同じだ。死ぬまで治ることはない。我慢はできても、克服はできない。 我慢する、というのが一番賢く世界に優しい方法なのであろう。しかし、それは自分を押さえ込むことだ。ぼくはそこまで自分に厳しくすることができない。まして、ぼくはごく人並みに健康な大学生男児なのだ。我慢なんてできるはずもない。己の欲望に忠実に生きてしまう。そんな自分は、嫌いではない。許せないのはぼくの性癖そのものと、その衝動のままに他人を傷つけることも厭わない自分だ。いたずらに他人(ぼくが過去にたしかに愛した人)を傷つけて、平気なはずがない。だけど、そんな身勝手をして傷つけておきながら、ぼくが傷ついた顔をするなんてことは許されないのだ。身勝手も過ぎる。この類の話では、悪気がないと余計性質が悪い。だから、ぼくは如何にも「初めからそうするつもりでした」と穏やか且つ飄々とした物腰で始終やり過ごす。 ぼくの説明をするとき、人は「ひどいやつだ」と言う。深くぼくを知っている人なら、「普通に友人として関わるのならとてもいいやつなんだけどね」と言う。「だけど」と言うのは、含みだ。いいやつ「だけど」、その性癖故にひどいことをする。他人にとっては性癖もその人間の性格だ。理解を示してくれる人はいないに等しい。いたところで、所詮ぼくの苦しみはどこまで行ってもぼくひとりの苦しみだ。誰に分けられるものでもない。あなただってそうだろう。
 そんなぼくの個人的な苦しみはなかなかマイナーだけど、ぼくの性癖そのものについては近隣ではなかなかメジャーだ。ぼくたちのバンドは最近めきめきと功績を上げている。先日数百枚作った三百円で一曲だけ入ったCDは、ライブ会場でしか売っていないのに二回ですっかり無くなった。インディーズだからこそ、というのもあるのかもしれない。ぼくたちはバンドをしながら普通に大学に通い、普通に街で生活している。街の人間の噂は実しやかに街を蔓延る。その悪い噂の流れた人間が、たまたまそれなりに人気のインディーズバンドのドラマーだったと言うだけだ。
 自己中心的な言い分に聞こえるだろうが、けしてぼくは悪くない。一番悪いのは、ぼくの性癖そのものだ。ぼくの否は、それをわかっていて我慢できないことであろう。しかし、ぼくは冗談や暇つぶしで人と付き合ったことはない。いつだって毎回本気で、今度こそはと思っている。今度こそは大丈夫だ、と。だけど結局、ぼくはぼくの性癖に敗れる。本気も誠実さも、最終的に消えてしまえば初めから存在しなかったものとされる。そして貼られるレッテルは、「加害者」「ろくでなし」「変態」「最低」エトセトラ。
 同情して貰いたいみたいになっちゃったな。




 ぼくは話し終えると、右隣りに腰掛けている彼女を見た。なんとも言えない憂鬱な表情で、端整な顔を伏せている。事情は知らないが生まれつきらしい鮮やかな長い青の髪の隙間から、白い肌が覗いている。三十センチ近い身長差を埋めるように、ぼくは腰を屈めて隣りの彼女の顔を覗き込んだ。なんとも遣る瀬無い、苦虫を噛み潰しただとか、ばつの悪い、などと取れる表情をしてはいるが、泣いてはいない。泣いているかもなんておこがましいのかもしれないが、それでも万が一泣かれたら困る。同じ部屋にはぼくの性癖を理解している彼女の恋人が、あからさまにこちらの様子を窺っているのだから。泣かれたりなんかしたら、なにを言われるか判ったものではない。
 彼女はほんとうに愛されてるな。愛され、誰かを愛している女性はきれいだ。ちらりと彼の様子を見ると、やはりギターの練習もままなっていない様子だ。ふ、と思わず彼らの微笑ましい愛情に頬を緩めて、ついでに骨の髄まで染み込んだ性癖を自嘲する。
「たいへん、なんですね」
 その凡人と変わった容姿故に彼女も今までつらい目に会ってきただろう、それでも彼女は自分の過去をたいしたものとも取っていない。自分に関してクールなのだ。それでも、他人に起きた出来事に対しては、人並みの感情で対応する。優しいひとなのだとわかる。今すぐその細い肩を抱いて甘い言葉のひとつでも言ってやりたい衝動に駆られるが、彼女のこれは言葉は悪いが平たく言うと同情でしかなく、ぼくがなにをし言ったところで彼女の愛は彼にしかないのだ。彼女の目がぼくに向けられることはない。そこまで考えて、軽く胸を締めつけられるような痛みに気づく。ぼくはそれを無視することにした。この胸の痛みは危険だ。彼女の目がぼくに向けられることはない、そこがいい。そんな彼女を手に入れたくなる。そんな愛情によく似通った性欲を、ぼくは理性でなんとか鎮めた。流石に大切な友人の彼女を奪うほど落ちぶれたくはない。
「なありんご。悪いけど、いい加減魚子さん連れてくるのやめたら」
 中身は自家製であろうお茶のペットボトルを首に当てながら、休憩を取っていた久仁臣が珍しく少し強い調子で言う。白々しく気にしていないふりをして壁の方を向いていた肩が大きく跳ねた。そんなこと本人の前で言うかよ、と小さくりんごは毒づいたが、言われた当人である魚子さんは、まったく気にしていないようだった。元々彼女自身そう社交性に長けた性格でもなし(極端に劣っているわけでもない)、直接話を振られるまでは会話に介入するつもりはないのだろうし、彼女は正論のわかる人間だ、それを知っているから、久仁臣も本人の前でもそんなことを言えるのだ。りんごもそんなことはわかっているはずだ。彼女の様子を窺うと、変わらぬ表情でぼくに言うべく台詞を探している。なんと真面目で真摯な姿勢なのだろう。こんなくだらない話に。恐縮もする。
「いつか、その性癖をも超えて愛せる人が現れるといいですね」
 分厚く丸いレンズの向こうで、綺麗な双眸が自身の科白を恥ずかしむように細められた。なぜ彼女は長い間学校という狭い空間の中で迫害され続けてきたのだろう。やたら乾いた喉でぼくはありがとうと答えた。「うん、そう、そうだね」かすれた。内心、まずいな、とぼやく。彼女は魅力的すぎる。元が良いのに、それに男がついたら尚更だ。つるりと滑らかな曲線を描く白い陶器の頬のラインを凝視する。叩いたら割れそうだ。けれど実際の感触は軟らかいのだ、きっと。なんて素晴らしいそのギャップ! 触れたい。触れていっそ割ってもしまえたら。不規則なリズムを刻み始めた心臓を誤魔化すべく、ぼくの口は冗談とも本気ともつかない音程で言葉を滑らせた。
「それは君かもしれない」「殺す!」
 年齢層広く女性にうける穏やかな笑みを浮かべたぼくに手を握られて不可解そうに彼女が首を傾げたのと、久仁臣と地味にやり取りをしていた彼が叫んだのは、ほぼ同時だった。矢張り気にしていたらしく、こちらの会話をちらちらと盗み聞きしていたのだろう。彼も可愛いことをしてくれる。ぼくは「冗談だよ」と彼女の手を離して笑った。彼はぼくを心の奥底では警戒しているのだ。(まあ、きっと彼はあおい以外のおおよそすべての男が彼女に近づくことを多かれ少なかれ疎んでいそうだけど)(しかし、それは彼女への疑念から湧き出るものではないのだ。けして)
「さて、ぼくもそろそろやるかね」
 降ろしていた髪を輪ゴムでひとつに結わえて立ち上がると、彼女も立ち上がった。「わたし、そろそろ帰ります。お邪魔しました」軟らかくはっきりと発音すると、彼女は持ってきた簡素なバッグを持った。
「魚子、帰るのか」
 すっかり帰る態勢になった彼女を見て、りんごは多少慌てたように言った。目を前髪ですっかり隠されていながらの彼の表情豊かさには、毎度のことながら感心させられる。一体どういう仕組みになっているのだろう。
「別に久仁臣くんの言ったことを気にしてるわけじゃない。わたしがいるとりんごが練習に集中できてないのは事実でしょ。スイッチ入るとわたしが居ても目もくれないけど、そんないつも都合のいいときに入るわけじゃなんだし。練習はちゃんとしたほうがいいよ、みんなに迷惑かかるから」
 すらすらと淀みなく話す彼女に、りんごは反抗の言葉を探そうとしているが見つからないらしい。当たり前だ、事実なのだから。筋金入りの正論ですね、お嬢さん。そんなツンデレなところもなかなか。目の前でスイッチ入られて見向きもされないのも、それはそれで少し淋しい、と入ったらほんとうに満点なんだけど。
「じゃあね、練習がんばって」
 りんごだけにともメンバー全員にとも取れるように軽く微笑むと、彼女は部屋をあとにした。「……そこでデレがくるか」、小さく呟いたぼくの声はメンバーには届かなかった。届く必要もない。
 手の平に巻いているテーピングがずれたり剥がれたりはしていないか確認して、ぼくは定位置であるドラムの椅子に腰掛けた。ひたすらに鳴っていた十六分音符のメロディの音が止む。「やんの?」、ピックを持っていない方の手でがり、と頭を掻くと久仁臣が訊いた。訊かれた当人だろうりんごは未だ彼女が帰ってしまったショックから立ち直れていないらしい。彼は病気なのだ。所謂、恋の病というやつ。陳腐だ。でも、嫌いじゃない。ぼくだって頻繁にかかっているのだし。もっと性質の悪い持病。
「りんごのテンション上げるために、椎名林檎いくか。道利さんがいないから、キーボードはなしだけど」
 りんごの代わりに答える。よくある現象だ。ぼくは人に先だって話すような人間でもないのだけれど。
「どれ」
 珍しく黙ってベースを弾いていたあおいが、顔を上げて問う。蛍光ピンクの髪が眩しい。
「何曲か続けてやらねえ」
「じゃあ、一人一曲あげよう。ぼく『正しい街』」「またかよ」「いい加減こういうときに上げられる曲は固定されてくものだよ」「じゃあ訊く必要なくねえ」「気分で変わったりするじゃん」
 こういった、やる直前が好きだ。演奏している最中はもっと好きだが、そのときはもう夢中で何も考えられなくなるから。冷静な思考判断がままなる演奏の直前が一番いい。ライブだって楽しいが、練習には練習の楽しさがある。何より本番であれ練習であれ、各々の音がぴったりと合って音の集まりが重なって曲になる様は何度体験しても素晴らしい。病み付きになる。思わず笑みも浮かぶ。
 意見を出すときの順番は決めた覚えもないのに、いつの間にかしっかり決まっている。ぼく、久仁臣、あおい、りんご、の順だ。今回もそうだろう。何故バンドのリーダーがボーカルではなくドラムが多いのか、最近少しわかってきた気がする。他の人が統率を取るのに、ドラムの音は大き過ぎるのだ。
「じゃあ俺『モルヒネ』。あおい、『ストイシズム』はなしな」
「ええええー、臣々の聴診器! ドクターストップ! じゃあ『サカナ』」
「りんごは?」
 見ると、チューナー片手にペグを回している。こいつ、ここに来てからまだチューニングすらしてなかったのか。愛機のファントムも泣いてるぞ。
「『やっつけ仕事』」
 チューナーをバッグの上に放ると、短く言ってマイクの前に移動した。ぶつりと音を立てて電源が入ると軽く声を出して音量を調節する。耳を劈くハウリングが起きて、久仁臣がボリュームを弄ってアンプから遠ざかるように一歩移動した。りんごもスタンドを引きずって位置を調節する。六畳のスタジオに、ドラムセットひとつとアンプが四つにスピーカーが三つ。そして平均身長百八十超の男が四人(主に平均値を上げているのはぼく)。その狭さがいい。これでだだっ広かったりなんかしたら興醒めだ。 息を吸う。メンバーたちはぼくが打ち鳴らすカウントを合図に演奏を開始するだろう。
 軽く腕を持ち上げて、スティックを構える。


スリーカウント



(07/07/06)
これはひとつの話ではなく話の始まりの段落です。続きはまだ書いていませんが。