わたしは平凡だった。飽きるくらいに。友人に訊ねればきっと普通でもないと言われるのだろうけれど、望んでいない。その程度の非凡。わたしが望むのは、丁度、そう。彼のような。彼のような非凡が欲しい。 毎日毎日、それと言った変化はない。ボランティアやサークルをちょこちょことしてはいるけれど、生き甲斐になるほどのものでもなし。そろそろ将来(つまりは受験)についても考えなければ。気が重いわ、なんとも。 彼はだれもが認める変人だった。学校内に友人はいない。無視されているわけでも、ましていじめられているわけでもなかった。しかし作ろうとしたところでそれは難しかっただろう。なぜって、言葉。通じないから。生粋の日本人で、現地人。日本語を書くし話す。漢字と仮名の集まりで表されるそれは誰がどう見たって日本語だ。しかし誰にも読み解けない。それは日本語ではなかった。松本凪語。勇気をもって彼を注意した先生すらも、話が通じず頭を抱える。誰もが一目置く変人。どうして遅刻したんだとの威圧感たっぷりの体育の先生にさえけろっと一言、「呼んでた」。だれが、で、彼はひたすら遠くを指差す。なにを指しているのかはわからない。わたしたちには見えないだけなのかもしれなかった。 誰もが頷く、彼は変人だった。高校生活三年間だけでもその奇行や迷言は数知れない。 そんな彼に、わたしは憧れていた。あれは恋だったかもしれない。うそだ。あの非凡さに憧れていただけ。平凡な自分とその日常に飽きて。 わたしは図書ボランティアの仕事で図書便りを作るためにコンピューター室へと来ていた。三階だ。コンピューター室を出てすぐ正面、階段を登ってならすぐ左。つきあたり、ガラス張りの壁の前の段に彼はこてりと倒れていた。わたしは足音を忍ばせて彼の顔を覗き込む。寝ている。すぐ近くの選択学習室からアコギサークルの音がぽつぽつと漏れていた。 ほんの出来心だ。わたしは思わず眠りこける彼の唇にキスを……なんて少女漫画的かつ阿呆なことはせず、わたしは彼の頬に思いっきり人差し指を突き刺した。ぐに、と勢いよく指が白い頬に埋没する。彼は少しだけ眉をひそめてうなった。まずいとも思わなかった。一旦指を離して、たすたすと軽く叩くように人差し指で押す。やわらかい。ぱちりと弾かれたように目を開くと、眼球だけぐるりと動かしてわたしを見た。もさもさに生い茂った暗いねずみ緑の髪の隙間から、ガラス球のような目ががっちりとわたしを捉える。髪の色とは対照に、肌と目は恐ろしく色素が薄い。何人だ、こいつ。 おもむろに身体を起こして彼は立ち上がる。百七十はあるのだろうが、わたしとさして身長は変わらなかった。ぱたりと携帯を開いて歩き出す。数歩ふらふらと眠そうに歩いて、たった今わたしに気づいたようにふと振り返ると携帯を閉じる。ため息を吐くようにああ、と漏らした。 「起こしてくれたの、セリヌンティウス。メルシーじゃあね」 面倒くさそうに言うと階段をひょこひょこと降りて去っていった。なんなの。珍しく、ちゃんと意味の通じる言語を話していたけれど。 だいたいセリヌンティウスってだれだ。太宰か。残念ながらわたしは彼の友人になった覚えも、まして命をかけて身代わりになるほど親しくなった覚えもない。きっと名前が判らなかったのだろうな。 なら、わたしは明日彼に話しかけよう。そして名前を教えよう。彼と話そう。そして度々人を惑わす彼の言葉を翻訳しよう。あの悲愴であったり投げやりだったりする表情の根底に巣食う孤独を打ち砕こう。 帰りコンビニに寄ってお菓子を買おう、そういったことと同じような突発さでわたしはそう決めていた。随分と簡単に決めてしまったけれど、わたしは彼との付き合いでなにひとつ失ってはいないから惜しいことなどひとつもなかったのだ。後悔する必要はない。 まず、彼はわたしの顔を知らなかった。同じクラスとも学年とも知らなかったらしい。そんなに印象薄い顔してるか、わたし。あの翌日からわたしは彼をつきまとった。公ストーキング。それでわかるだろうけれど、わたしも常に一緒にいるような特定の友人を持っていなかった。 物理の授業の終わり、当番でわたしは黒板を消していた。当然ながら彼はすぐ教室に戻ろうとする。「あっ、ちょっと、待っててよ凪くん」「AからZまででごじゅうだよ」いやだなあ、そうあからさまに表情に出しながらも彼はちゃんと待っていてくれる。 「凪じゃない」物理室を出て灰色の廊下を歩きながら、珍しく彼から口を開いた。「あおい。雨に久しい花って書いて、みずあおいっていう。みずあおいじゃ長いから、あおい。凪じゃない。あおいっていう。凪じゃないんだ」彼にしては長く話して疲れたのか、ふうと息を吐く。よくわからないけれど、名前のことらしい。あおいと呼べということらしい。わたしは頷く。「わかったよ、あおい」「う」納得したように頭を揺らして、ねずみ緑のもさもさの隙間の目がちょっとだけ笑った気がした。 あおいはだれに対しても、無機物を見るような目をする。きっと彼が言葉と奇行以外に人と馴染めない原因があるのなら、それは彼の他人を見る目だ。何の感情もない無機物の目。そんな彼の眼球こそが彼が見るなにものよりも、ガラス製で無機物のようだ。毎日じろじろと不躾に見ていて、わたしは他のクラスメイトはけして知らないであろう彼にまつわるいろいろなことを発見していた。彼の右目には泣き黒子がある。ピアスホールがとても多い。いつもは髪で隠されているのだが、軟骨にもたくさん空けている。私服校の特権。わたしもピアスには興味があるからどのくらい痛いのか訊ねてみたのだけど、「ヒトリスメバフェロイ」とぼそりと言っただけだった。人間が生きていくために必要なアミノ酸の覚え方。家庭の先生がこう覚えるといいって。ピアスまったく関係ないし。会話がまともに繋がらないのも、たまに不便だ。 想像通り周囲にはあおいと付き合っているのかと思われたけれど、もちろんまったくそんなことはなかった。わたしの公ストーキングも半年に及べば、あおいも受け答えだけでなくときおり自発的に口を開くようになっていた。相変わらず的を得た話は少ないけれど。得た情報は好きな画家や音楽についてと、絵を描いていることと、クニオミなる人の影響でベースを始めたということ。わたしたちははたから見れば仲のいいカップルに見えただろうし、実際の仲だって飛びぬけてよくはなかったものの問題だってなにひとつなかった。あおいにそんな気がなにひとつないのもわかっていた。でも、なんだか、いつのまにか一緒にいるのも当たり前になっているし。最近はあおいのほうから寄って来ることもあるし。そういうことはなくても、これって付き合ってるのと同じなんじゃないのか。そんなことも思い始めていた。おばかながら。 その頃わたしは小学校の教科書に載っていた宮沢賢治の小説にでてくるいきものと同名のアーティストを好んでよく聴いていた。今でもたまに聴いている。学校帰りのバスの中でぼんやり曲を聴きながら宮沢賢治の小説を思い出した。授業で読んだとき以来一度も読んでいないので記憶はほとんどないのだけれど、その謎の生物はなんだか彼によく似ているように思う。もっともその生物の正体は作中では明かされないから、なにであるかはわからないし生き物でもないのかもしれないけれど。その、曖昧さが似ているのだ。あんなに確立しているのに、彼をわかる人はだれもいない。二匹の子供の蟹が、彼のはなしをする。水底まで届くラムネ色の月光のなか、彼はわらうのだ。ガラス球の目で。 あおいが言うクニオミとやらに会ったのは、公ストーキングが半年を越えて七ヶ月になった頃だ。学校のすぐ近くのスーパーで。季節は冬になろうとしていた。寒い中でのアイスと言うのも、また乙。 高校生の思考回路ってば大概は似たようなもの(しかもそろって馬鹿なんだ)らしく、わたしのすぐ横には近くの私立高校の制服を着た男子が数人、同じようにアイスボックスを覗き込んでいた。「クニオミは?」その名前が耳に入った瞬間、わたしは目にも止まらぬ速さ、というのは言い過ぎにしろ声の元へと顔を向けた。クニオミなんてなんともいえない名前の人、そうたくさんいてたまるか。一人が気づいて訝しむ視線をわたしに送る。それは周りに伝染して、結局全員がわたしを見る。さすがに少し恥ずかしい。「……あの、ええと、クニオミって、どのひとですか」 「俺だけど」 眼鏡に黒髪。背はあおいよりも少し大きいだろう。私立校の学ラン。凡庸だ。恐ろしく凡庸。本当にこの人があおいの友人なのだろうか。こんな凡庸男があのキングオブ変人と並んでしまったら、途中でクニオミが消えていたってだれも気づかないのじゃなかろうか。いや、逆にあおいの突出した変人さと相まって彼の凡庸さが異質に見えるだろうか。いいや凡庸はどうなったって凡庸であいまえばさらに薄くなるだけだ。とにかく、クニオミは少女漫画で似たようなキャラが登場しまっているであろうことが予測される、どこにでもいそうな凡庸キャラだった。それなりに整った顔をしているのに、なぜか冴えない可哀相な男。 二、三言交わしてやはり彼はあおいの言っていたクニオミだとわかり、わたしたちは外のベンチで少し話すことにした。他の男子たちもわたしには興味がないようで、さっさと先に帰ってしまった。アイスの会計を済ます(もちろん「俺が払ってやるよ」なんてジェントルなことにもならない)と、わたしたちは入り口を出てすぐのベンチに腰掛けた。あおいにまつわるくだらない話をする。クニオミは高橋久仁臣と言って、あおいとは幼稚園からの幼馴染らしい。なかなか過激なエピソードもあった。あおいはもう随分昔からああらしい。 「あんた、あおいから少し名前は聞いてる。珍しいやつだよな」久仁臣と話すときも、あおいはあおい語を用いるのだろうか。標準語で話す彼なんて、想像できないしあまりしたくない。かと言って、おまえ最近どうなの、空が青で染まるのは危険信号なんだよ鳥がおちてしまうから、そうかそんなことがあったのか、なんていう会話もシュールすぎる。思わず想像して噴きだすとと変なものを見るような目で見られた。変な人間にはあおいで慣れているんじゃなかったのか。 「そうかな」 「あいつと一般人がまともに付き合うには、翻訳機が必要だろ。かと言って、取扱説明書が作れるような単純な構造でもない」 「たしかに」 「で、あんたはどう思ってるわけ」 「なにを」「あおいのこと」決まってるだろ、と言いたげな目でわたしを見て、久仁臣は言った。先刻から、なんとも失礼な男だ。「ああ」好きか嫌いかと問わるるならば、好きなほうだけれど。どうして高校生ってこんなに恋愛の話、好きなんだろうか。好きとかそうじゃないとか、めんどうくさいだけなのに。あおいだって、そんなことを考えてわたしと一緒にいるわけではない。「どうだろう」「ふーん」自分から訊いておきながら興味のなさそうな相槌。さすがにこの時期に外でアイスは寒すぎた。二十分弱話して、わたしたちは別れた。わたしは滅多にこのスーパーには寄らないし、よほど運が良くなければわたしたちがまた顔を合わせることはないだろう。わたしはその二十分で四回彼をクニヒコと呼び間違えた。最初にして最後の対面なのに、失礼だぞわたし。 久仁臣は傍迷惑なお土産をわたしに残してった。対抗心だ。あの男、去り際に「あんたがあおいのことどう思ってるのかは知らないけど、仮にそうだとしても付き合うのは無理だな。あいつ変に軽いだから、するだけならできるかもしれないけど。でも、あいつはあんたと付き合いはしない。なんでって、俺もうまくは言えないけど、あんたはそういう人じゃないから。あんたと出会ってあおいは何も変わっていないから」なんて言いやがった。要約すると、つまりわたしはあおいの運命の人ではないのだそうだ。わたしには彼の孤独を打ち砕けないと。そんなこと、おまえみたいな地味男にどうしてわかる。どうせ彼女もいないんだろう、いないにちがいない。そんなこと、決めつけられてたまるか。わたしの中でくだらない負けず嫌いの心がめらめら燃えているのがわかった。前にも触れたがわたしは恋愛対象としてあおいを見たことは恐らく一度もなかったし、まして愛してるなんてこともまったくなかった。わたしの人生の中での重要度もさして高くない。その程度。好きだし大事だけれど、学校の外では忘れている。でも、あおいにとってのわたしもその程度であるなんて許せなかった。こんなにずっと、一緒にいるのに。本当に呆れてしまう、自分本位な対抗心。大体にして、対抗って、だれに。あおいの運命の人にだろうか。そんなだれかもわからない人に。くだらない、わかっている。それでも、それは年度の終わり間近の昼休みにぽろりとわたしの口から零れてしまった。迂闊。あおいのあまりの呆けさに、少しかっとなってのできごとだ。三階、一番奥の非常階段。人も少ないし静かでいい。よくその場所でだらだらしていた。あのときだけは、その静かさが仇になった。 「あおいって、わたしのことどう思ってるの」 俯いて飲み終わったパックのストローを噛んでいたあおいが、丸い目でわたしを見上げる。その目の冷たさと純粋さにわたしは思わず怯んで、すぐに後悔した。後悔していた。 「どうって」 その質問の意を理解しているだろうに、そんなことを訊く。わたしはきまりの悪さに、あおいから顔を背けた。なにを言ってしまったのだろう。あまりの混乱に、わたしは珍しくあおいがまともな受け答えをしていることにすら気がつかなかった。いつもなら、「黒板消し」だとかわけのわからないことを言うはずなのに。そうしてくれればよかったんだ。いつもならそうしたくせに。あおいはパックにストローを押し込むと適当に放った。コンクリートに乾いた音が響く。 「普通」 がつりと頭を殴られたような鈍い痛みを感じた。こんなにずっと一緒にいたのに、普通。その程度か、わたしって。軽く眩暈すら感じた。これだけは正直に言える。ショックだった。嫌いじゃない、でも、好きでもない。いたらいたで悪くないけれど、いなくても変わりない。その程度。 なんだか申し訳なさと罪悪感が競りあがってきてわたしは謝ろうと口を開いた。だけど、言葉が出てくる前に頬を涙が滑り落ちた。感触でわかる。それでも謝ろうと、なにがかはわからないけれどこれは違うと弁解しようとするけれど、途方に暮れた表情すらあおいには悲愴と取られそうで、言葉もうまく出てこない。なのに涙は止まらない。あおいもいささか狼狽したような顔でわたしを見ている。困っているようにも取れる。困っているのだろう。 しばらく視線をさ迷わせて悩んだ挙句、あおいはその白い手でぽんぽんとわたしの頭を撫でた。ばか、逆効果だ。 「もうやめよう」 「…………に、を」嗚咽に阻まれてうまく声がでない。わたしの頭に触れる手は思っていたよりも大きくて硬かった。 「なにもないから。きみが思っているほど非凡じゃないから」 指の間から彼を見る。ガラス球の目。感情のない冷たい純粋な目。それを見て、急速にわたしの心も冷えていく。うそ、うそだ、彼が非凡でないことはない。だけど、彼の言う通りわたしが思っているほど非凡であることもないのかもしれない。根底はただの人間で、だからこそ彼は絶対的な孤独を抱える。 ここでわたしがなにか言えば、彼はこの言葉も撤回してくれるだろう。いつものように意味不明な言葉を話すいつものあおいに戻るだろう。そうわかってはいても、わたしはなにも言わなかった。その言葉に異議がなかったからだ。 あおいがわたしのことをどうとも思っていないことはわかっていた。わかっていたはずだ。わたしだってそんなこと望んでいなかった。それでも彼と話し接するようになってその非凡さや平凡さを知り、正確な意思疎通すらできていなかったとしても、わたしが彼に惹かれていたこともまた事実だった。先にあるものが恋愛か否かはわからなかったけれど。曖昧なのはわたしも同じだった。けれどあの日久仁臣に一方的に点けられた闘志は消えてはいなかったのだ。久仁臣のやつ。逆恨みもしてみる。しかし今思えば、わたしはあおいがわたしを好きだったらそれはそれで困ったはずだ。なぜって、仮にも彼が恋人であるところなんて想像できなかったから。 わたしは知らなかった。予測できていても、誰かに拒絶されることがこんなに悲しいなんて。 授業をさぼった保健室のベッドでわたしは布団の中で丸くなってあのアーティストの曲を大音量で聴いた。保健の先生がなにか言っているけれど気にしない。二匹の子供の蟹が話をする。彼の話だ。彼は死んだよ。彼は殺された。彼の訃報を子供は伝う。彼はわたしの中で死んだのだ。現実には生きていたって、同じようなことだ。もう関わることはない。 それを境に、わたしとあおいの縁は面白いくらい完全に途切れた。一年弱のことは、無かったこととなった。あんなにずっと一緒にいたのに。不思議だ。 唐突に関わりを持たなくなったわたしたちを周りのひとびとはいくらか気にしていたけれど、丁度よく年次が上がってクラスも変わり、多くの人はわたしたちのことは忘れ、覚えていた少数も別れたのだろうと気を使ったのかなにも言ってはこなかった。 その後わたしは東京のそれなりな国立大学になんとか滑り込んで、とりあえず数学をやっている。こんな勉強が社会で役に立たないし就職にも活かせないとは知っていたけれど、数学は好きだし楽しい。困ったら塾の講師にでもなろう。一方あおいも、関東の芸術大学に入ったそうだ。じゃあ、もしかしたら、縁があれば会うこともあるかもしれない。そう、その話を聞いたときに思った。 もう三年も前になるのか。ものの数秒で記憶の再生は終わり、わたしは向かいからやってくる集団の一人を不躾なほどに凝視した。目に痛い蛍光ピンクの髪はすっきりと短い。当時の面影はまったくと言っていいほどになかったけれど、すぐにわかった。絶対と言える。右目の泣き黒子。異様にたくさん空けられたピアス。ガラス球の目。四人中彼を含めた三人は大きなケースを背負っている、きっと彼のケースの中身はベースだ。この四人でバンドをしているのだ。 なによりの衝撃は、その表情。笑っている。見たことがないくらいの満面の笑顔だ。それが続く。初めて知った、彼は意外と釣り目ながら幼く可愛らしい顔だちをしている。隣りを歩く長髪で背の高い男の人に笑うと、口を開く。「某、うるち米を所望するよ!」弾むような声。明るくなったなあ。変わった。すごく変わった。でも、彼だ。あんな難解な言語、そう操れる人がいてたまるか。多少ペースは落ちながらも、わたしは平常を心がけて歩く。そういえば、他の三人のうちの一人はおそらくクニヒコだ。ちがう、クニオミだ。あの地味眼鏡、間違い無い。 ばくばくと早鐘を打つ心臓をなんとか抑えて、わたしは彼らとすれ違う。どうやらわたしには気づかなかったようだ。毎度のことながら、そんなに印象薄い顔してるか、わたし。軽く失笑する。 「セリヌンティウス」 がばりと勢いよく振り返ると、彼はわたしを見た。ような気がした。一瞬、目を細めて笑う。柔らかい春の日差しを受けて、明るい髪がきらきらと光った。気がした。わたしを、見て、笑った、ような気がした。自意識過剰かもしれない。隣りの男が聞き返す声が遠くからわずかに聞こえてきた。本当はその人を見ていただけで、わたしを見ていたなんて気のせいかもしれない。けど、いいんじゃないか、そう思っても。いいんじゃないのか、そう思って。思わずわたしも小さく笑う。 実はあのあと、またあのスーパーで久仁臣に会った。そこであおいの話も少し聞いたのだ。落ち込んでるみたいだ、ぽつりとそれだけ言って、久仁臣はわたしを見た。あおいが少しわたしのことで後悔しているようだった、と言いたいらしい。久仁臣、多少あおい語がうつっているんじゃないのか。それを聞いて失礼ながら笑ってしまった。だって、なんだそれ。 結局、わたしたちってなんだったのだろう。もちろん恋人ではなかったし、友達と呼ぶのもなんだかちがう。それに、「友達」だなんて。今更言葉にすれば、こそばゆい。 すべてがわたしの身勝手で始まり終わった。あおいには悪いことをした。いつか謝らなければいけない。いつだって会話は通じなかったしなんだかちぐはぐだったけれど、思い返せば彼はいつでも優しかったのだ。それこそ美化された青春の思い出かもしれない。 彼は言うところの運命の人と出会い、今のようになれたのだ。根底の孤独を打ち砕かれて、臆しても本来の姿を晒す。冷たいガラスの透明な目で、ああして無邪気に笑うのだ。 ああ、やっぱりなんだかわたしは恐ろしく都合がいいかもしれないぞ。わたしはやっぱり、あの人が好きだったかもしれない。 ねえクラムボン、やっぱりわたしはあなたがよくわからないよ。これからあなたをもっと知ってゆくことができないなんて、悲しい。けれど、できるならこれからもわたしのことを覚えていて。あなたの青春時代の先駆けに、自分勝手に近づいて去っていった阿呆で平凡な女生徒のことを。これからのことは知らないけれど、あなたがそうやって笑えるようでわたしは少なからず嬉しい。悔しくて、羨ましいけれど。 満月の夜には、変わらずより一層美しさを増した丸い虹が掛かって、それを見てあなたは満面の笑みを浮かべわらうのだ。かぷかぷと。 (07/05/03) クラムボン→ @宮沢賢治著作「やまなし」に出てくる謎の物体(生命?) Aclammbon→キーボード、ベース、ドラムのスリーピースバンド |