断て、ムスカリ




 ぼくは病気を患っている。なんとも面白い病気だ。
「病気ってのは言い過ぎじゃね」「そうかな。これはもうある種の病気だよ。おまえが女遊びをやめられないことと同じだ」「ホズミが二次元至上主義であることとも?」「そういうこと」  ぼくは彼氏ないし夫のいる女性しか愛せない。そう気が付いたのは、比較的最近のことだ。あるときぼくの恋愛が浮気なる形で実った。初めての彼女(むこうにとっては愛人)とセックスをしていたときのことだ。行為自体は初めてではなかったけれど、相手が恋焦がれた女性ともなれば格別だ。甘すぎて苦しい。あのときのぼくはちっとも冷静ではなかった。しかしなぜか頭の底はひどくしらけていて、ぼくのこれからについてをうんざりするほど示してきた。あの瞬間、真に一番近くにいたのは彼女ではなくぼく自身だ。「ぼくは彼氏のいる女性しか愛せない」脳髄にしがみついたそれが振り払えない。それでも打ち消そうと必死になる。そう躍起になるほど脳の奥深くまで警鐘は染み渡った。好みのタイプは、彼氏のいるひと。付き合うには相手に浮気をさせるしかない。そしてこの呪いにも似た性癖は、それで終わりではなかったのだ。
「でもアスカって俺の彼女は取らないのな」「だってヨツヤは彼女のこと、好きでもなんでもないじゃん」「彼氏いればいんじゃねえの」「よくないよ。ぼく以外の人間に愛されて、ぼく以外の人間を一番好いているのがいいんだ。そうじゃないなら意味がない」「ふうん、ビョーキ」「だから言っただろ」
 手すりに頬杖をついて隣に立っている女癖の悪い友人は歌うように病気病気とくり返す。もう一人、二次元の世界にしか興味のない友人は後ろで壁に凭れかかってゲームをしていた。最高で何股かけたことがあるかだとか今までいかに多くのいい女を落としてきたかだとかを誇らしげに掲げたり、紙に印刷された平面の女の子こそ世界でなによりも美しいなどと本気で思ってましてそう言ってしまったりするようなやつらをぼくは馬鹿だと思うし理解できないししたくもない。そして同時に彼らにとってのぼくだって似たようなものであるに違いない。
 なにとなく見下ろすと、丁度彼女が校門から学校を出ようとしているところだった。顔は知っているけれど名前は知らない女子数人と並んでいつものように談笑している。なんとなく、左頬に触れてみた。痛みはとうに消えていた。

 彼女、佑月はぼくと同じクラスの須藤と付き合っていた。ぼくと佑月が関係をもつようになるまでの経緯はよくは覚えていない。明確な切掛けを持って潔く始められない関係は、気が付いたときにはでき上がっているものだ。そしてそうしたときにはもう手遅れ。身はすっかり深みに嵌り、そう易々とは抜け出せない。泥沼だ。どちらにとっても。
 須藤は野球部に所属しているスポーツバックとリプトンの似合うごく普通の高校生らしい高校生で、ぼくは話すこともしばしばあった。CDや漫画の貸し借りはするけれど休日にわざわざ待ち合わせをして会って遊ぶことはない。そのくらいの友人だ。須藤が佑月と付き合っていることは知っていた。その手の噂はなにもなくとも広がる。学年では周知の事実であった。彼女との関係がいつ始まったのかを覚えていないように、ぼくの彼女への気持ちがいつ始まったのかもぼくはよく覚えていない。それはぼくが、彼女と須藤が付き合っているのだと知るよりも前だっただろうか。後だったのだろうか。よく、覚えていない。しかし素直に考えて、それは知った後なのだろう。無駄な期待はいだかない。期待とはすなわち「彼女はぼくの性癖をも超越して愛すことができる人間かもしれない」というものであり、今までぼくは何度、今回こそはと思っただろう。これじゃ新しい恋をする度にこの恋こそ最後の恋で、一生の恋だと信じ言い張る女となにも変わらないじゃないか。学習能力のあるぼくはいつからか期待することをやめた。それでも相手に浮気をさせてまで付き合うのだから、口ではこんなことを言ってもきっとどこかで期待しているのだろう。
 要するに彼氏持ちのなにがいいのか、ヨツヤに訊かれたことがある。先刻言った通りだ、だれかを愛し愛される女性は美しい。そのだれかはぼくではいけない、そこが問題なわけだ。ヨツヤには理解できないと一蹴されたが、ぼくにとってはそうなのだ。これが、理由のひとつ。
 休日の午後、須藤に部活があると彼女はぼくと会う。大概はぼくの家だ。こんな関係じゃ外でデートなんてできないし、彼女の部屋で迂闊なことをして須藤にばれてしまうのも困る。そんなへまはしないけれど。玄関の呼び鈴で下へ降りて佑月を招き入れると、非難めいた弟の視線は無視して自室にあがる。「ねえ、アスカくん。やっぱりシャワー浴びたほうがいいよ」困ったような顔をした佑月が部屋に入るなりそう言う。午前中、部活の前に須藤は彼女と会っていた。若い恋人同士が会ってすることと言ったらひとつしかない。他にもあるのかもしれないけれど少なくともぼくはそれしか知らない。そして彼女は須藤と別れてそのままここへやって来た。ぼくがそうするように言ったのだ。早く会いたいなどともっともらしい理由を付けて。ヨツヤが聞いたら、きっと思いきり顔をしかめて悪趣味だと言うに違いない。その通りだ。「いいよ、弟いるから無理だし」でも、と尚も気にする彼女をいなして肩に手をかける。眉尻が下がり潤んだ瞳と目が合う。須藤の家からぼくの家まで、どんなに長くても一時間はかからない。向かい合うと先刻までの行為の余韻で彼女の頬が微かに蒸気しているのが見てとれた。妬けるね。顎から頬にかけての穏やかな曲線に触れると反射的に小さく身をひかれる。いまだに慣れないのか、敏感になっているだけなのかはわからない。たったさっき須藤が触れただろう唇に軽くキスをしてベッドに倒れこむ。ゆっくり話すなんて後でもできる。青春は短くて、熱情は早いのだ。
 額に口づけて柔らかい髪に鼻の先をうずめると、女子特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「ふふ」「ん、なに」ゆっくり肺を満たして、左手の指が髪を梳く。「このベッド、アスカくんのにおいがする」その言葉にぼくは小さく笑う。彼女に紛れて存在を主張するまったく異なったそれ。きみは須藤のにおいがする。
 頬を舐めると嫌がっているとも善がっているとも取れるように彼女は身じろぎした。浮気はしてはいけないことだ。背徳はなにより快感を助長させる。たとえぼくと浮気をしているとはいえ正式に付き合っている恋人が須藤である以上彼女の一番は彼だ。今この瞬間も、目を瞑った彼女が思い描いているのはぼくではなく須藤なのかもしれない。ぼくは須藤がいないときにその代わりとして須藤を投影するためのスクリーンとして彼女に利用されているだけなのかもしれない。そう考えるとぎゅうと心臓が締め付けられるように痛む。くるしい。これが好きだ。たまらない。だからぼくは二番になる。叶うことのない恋の甘い痛み。すべてはつまり、「如何に欲情できるか」だ。論理的な話はできない。人間だもの。
 野球部は夏休みだって毎日部活だ。ぼくの高校の野球部はたいして強くもなかったし、甲子園なんて夢の夢でとても行けるようなレベルではなかったけれど、それでも高校球児は毎日炎天下で頑張る。須藤が部活に勤しんでいる間、ぼくはクーラーの効いた部屋で彼女と勤しんでいたわけだ。ぼくらの夏は、緩慢で、気怠くて、やっぱり暑い。

 ぼくたちはそれなりに上手くやっていた。浮気という、なんとも聞いた感じ居心地悪く、いまいちどうにもならない関係で。彼女だって須藤と付き合い始めたときは、自分が浮気をすることになろうとは夢にも思わなかっただろう。
 一度だけ、彼女の部屋に上がったことがある。一人っ子の彼女は2LDKのマンションに両親と住んでいて、窓際の部屋を持っていた。小綺麗な部屋の低くて柔らかいベッドでしたあと、ふと顔を上げるとベランダにプランターが並んでいるのが見えた。整然としたプランターから細長い葉を持った青紫の花が好き勝手に伸びている。一センチにも満たない小さな花の集まりが縦長の花を形成していた。ぼくの腕に頭を乗せていた彼女もぼくの視線に気がついて顔を上げる。 「それ、ね、ムスカリって言うの。知ってる?」「しらない」「面倒くさくて掘り返さないから、毎年勝手に増えていくんだよね。菅野先生って、植物とか好きでしょ、教室のベランダにも並べてるし。だから今度、持って行こうと思ってるの」「へえ……」
 はじめに言っておこう。ぼくはけして適当な気持ちで佑月と付き合っていたわけじゃない。その付き合い方が道徳的に正しくなかったとしても、ちゃんと本気で誠実に(そして例に漏れず心のどこかで淡い期待を抱きながら)、ぼくは彼女を愛していた。もちろん、言い訳だ。性癖と現実は覆せない。

 昨日。夏休みも明けてしばらくが経ち、珍しく野球部の活動がなかった。そんな日は浮気相手よりも本命が優先されるわけで、ぼくはヨツヤとホズミと街中をぶらぶらして、サーティーワンでトリプルを食べたりゲーセンでホズミの気持ちの悪いほどのUFOキャッチャーの腕前を披露されたりヨツヤと音ゲーでセッションをしたりと遊び歩いた末、カラオケでだらだらと歌っていた。ホズミは先刻取ったフィギアをつまらなさそうに眺めている。二次元至上主義の彼には二次元の世界を三次元に持ち込もうとする感覚がわからないらしい。ホズミはカラオケで歌わない。でもぼくらが行くと言うとなにも言わずに付いて来る。ホズミにとってそれはぼくたちがさして行きたいと思っていなくてもゲーセンに付き合うのと同じことなのだろう。そうは言ってもぼくらはアニメイトやとらのあなには付き合わない。ヨツヤはメイド喫茶には興味があるらしい。多分「メイド喫茶のメイドを持ち帰った」というステータスが欲しいだけだ。あいつならば本当にできそうで怖い。
 ぼくの歌唱力については別段特筆すべきこともないが、ヨツヤはなかなか歌が上手い。性格通りに軽いけれどいい声をしている。頭は残念ながら見た目だって死ぬほどいいし、普通の人が歌えば絶叫しているだけでなにも面白くないモーサムトーンベンダーも彼が歌えばなかなか様になる。ピロウズなんて歌わせた日には犯罪だ。どんな女でも落とせるだろう。これは言い過ぎか。『ストレンジカメレオン』を歌っているヨツヤをぼんやりと眺めながらそんなことを考えていたぼくは、ポケットの振動に気が付いて携帯を取り出した。電話なんてめったに来ないからメールであることはまず間違いない。ぼくは携帯を開いて、すぐに閉じた。メールは一瞥して彼女からであることがわかるものだったし、一瞬で読めるほど簡潔で短いものだった。それからぼくの調子があからさまに変わったことに二人は気付いていたが、なにも言わなかった。距離の取り方を知っている、なかなかいい友人だ。珍しい光景でもないがその日は最終的にヨツヤの独壇場となって、モーサムの『You are Rock'n roll』でしめられた。よりにもよってモーサムでしかもこの曲でカラオケを終えるやつなんてそうそういないだろう。ぼくはもう「それは歌じゃなくて語りだ」と突っ込むことすら億劫だった。むしろぼくがあまりに静かになってしまったから突っ込ませるためにそうしたのかもしれない。それは考え過ぎか。ホズミはそもそもモーサムなんて名前も知らないので突っ込むわけがなく(むしろあいつはサウンドホライズンで語る曲には慣れているのかもしれない)ヨツヤが一人で満足する形となったわけだが、元々ヨツヤはぼくらとカラオケに来るときは普通の友達や女の子と来ているときには歌いづらい曲を歌うことが目的らしいから、これでいいらしい。
 須藤くんと別れた、これから会いたい。彼女からのメールにはそれだけが書かれていた。無機質な画面が伝えるのはあるがままの言葉だけで、ぼくの焦燥は治まらない。

 昼間は蒸し暑かったのに夜になると肌寒いくらいで、霧雨が降っていた。秋も冬もすぐ傍だ。傘をさしていても、空中すべてに霧散する水分は彼女の服や髪、肌を湿らせていた。彼女の肌を濡らしていたのは雨だけではなかった。卑猥な意味ではなく。青春は残酷で、熱情は冷めやすい。あれは映像的に、欲情する場面だったはずだ。もっとも、熱情の切れるスイッチをぼくは知っている。

 佑月の部屋のベランダにムスカリのプランターが並んでいた、あれは春だったからもう半年が経っているのだ。手持ち無沙汰に一番近くのプランターを引き寄せる。細長い芽が土から顔を出している。思い出して、もう一度左頬に触れてみた。須藤は野球部だからどんなにいいパンチを持っているのかと少々期待したのだけれど、そこまででもなかった。しばらく頭がふわふわしたのも一時間ほど経った今では残っていない。暴力をふるうことに慣れていないだろうし、いくらぼくが悪いといえ人を殴ることに抵抗を感じて無意識のうちに手加減してしまったのだろう。しなくていいのに。しなくてよかった。全力で殴ってくれればよかったのだ。それでこの性癖こそ治らなくても、もうだれかの浮気相手になんてなりたくないと思えるくらいに打ちのめしてくれればよかった。しかしどんなに痛い目を見たところでぼくは学習しないだろう。いや、しているのだ。悪いと思っていないことはない。どんなに後悔してもどんなに罪悪感が募っても、結局ぼくは一番のいる人を好きになって、二番目になって、その人の一番になれた瞬間に捨てる。「さいあくだ。おまえ、さいあくだよ」そう呻くように言った須藤の表情は窺えなかった。殴られた左頬は麻痺して、それよりもずっと机にぶつかった足のほうが痛かった。ぺしんと左頬を軽く叩く。「痛いのか? 色男」手すりに寄り掛かったヨツヤがにやにやとこちらを見ている。「まさか。おまえにだけは言われたくないな」答えてぼくもにやりと笑う。強がりじゃないとは言い切れないが、無理をしているわけでもない。半年以上も浮気に気が付かなかったおまえも悪いとか、浮気される程度にしか佑月に好かれる魅力がなかったんだろうとか、そういったことは須藤には言わなかった。流石のぼくもそこまで悪い性格はしていない。事実はわざわざ言わないほうがいい。ぼくだって、反省していないわけではないのだ。本当に、もっと強く殴ってくれたら。  彼女は男にふられて学校を休むような真似はしなかった。なにごともなかったようにいつも通りの友人といつも通りに登校して、なにもかもがいつもと変わらなかった。ぼくらが廊下ですれ違ったときだれにも気づかれないよう密かに目配せをすることだけが永久になくなった。
 ぼくは昨夜、佑月をふった。ぼくの彼女への愛は彼女が須藤と別れたことによって消えてしまった。おかしいって、だから病気だと言ったじゃないか。それで、今までのぼくと佑月の関係や、佑月が須藤と別れるやいなやぼくが佑月を捨てたことを知った須藤に、殴られた。だけどこれってなんだかどこかおかしくないか。悪いのは本当にぼくだけなのだろうか。須藤を捨ててくれだなんて佑月に頼んだ覚えはないし、むしろこうなるとわかっていたのだからぼくは二人に別れて欲しくなかった。当面ぼくへの非難の声は消えないだろう。覚悟の上だ、甘んじて受け入れよう。大衆に言い訳をするつもりもない。どんなにぼくが彼女を愛していたか、今となっては証明する術もなし、遊びだったと思われているに違いない。今は愛していないという事実だけが残る。こうなることがわかっていたなら浮気なんてさせなければよかったのにと、思うこともある。そう頭ではわかってはいても、甘美な日々が目の前にぶらさがっているのをどうして見過ごせようか。少なくとも、思春期の高校生には無理だね。むりむり。
 ヨツヤの不特定の彼女情報によると、佑月と須藤は話をつけたらしい。須藤はたいそうご立腹だった(それは身を以て知っている)そうだけれど、今回のことは二人の間に大きな溝を残すだろうけれど、うまくいけば二人はまたやり直せるかもしれないそうだ。複雑だが、それは素直に喜ばしいことだ。手遅れになっていないといい。
 前にもこんな状況になったときに、ホズミが「本当に好きだったかどうかなんて、自分が知ってればいいんじゃない」とぼくに言った。いつもギャルゲーばかりしているオタクだが、あれで案外いろいろなことを考えている。彼女との思い出がすべて嘘だったと思われるのは寂しいし、彼女にそう思わせてしまうのは申し訳のないことだ。しかし弁解の言葉なんてもはや無用なのだ。今更ぼくがしゃしゃり出たところで事態は悪化しかしない。彼女の傷心は須藤が癒すのが一番いい。彼女にとって嘘になろうと、ぼくにとっては本物だった。苦い思い出を最後に残して、ぼくの恋愛はいつも終わる。悲しくも寂しくもあるけれど、不思議と涙は出そうにない。ぼくだって、彼女が須藤と別れてぼくを一番にしてくれたことを素直に喜びたかった。けれど、できなかった。熱情の冷めるのは本人にさえどうにもできない。
「これ、彼女が持ってきたんだ」顔は向けずとも、応える相手はヨツヤしかいない。ちらりとぼくの手の中のプランターを見て、すぐに興味がなさそうにまた遠くを見る。「ふうん。なんての」「名前?」「ああ」「ムスカリ」「花?」「そう。青紫で、丸い小さな花が縦長に密集して咲くんだけど」「んん」「正直ね、あんまり好きじゃない」「なんで」
「……なんか、卵みたいで気持ち悪いだろ」
 ぼくの言葉に噴きだして、どんな花だよとヨツヤは笑った。そういえば今日は不特定の彼女とのデートはどうしたのかと訊こうとして、やめた。ヨツヤもホズミも、彼らなりにぼくに気を使ってくれているのだろう。余計なお世話だ。悪い気はしない。
「あ」
 つるりとプランターが手からすべって、ぐらりと傾く。まずい、と手を伸ばしたときには遅かった。三階からプランターは落下し、硝子より鈍いがそれでもけたたましい音を遠くで立てて砕け散る。乗りだして見るも、小さな芽は土の中には見つけられなかった。




(07/09/03)