サイケデリック・ローラシア




 眼前に果てしなく世界が広がっている。奇妙ながら慣れた浮遊感に、ぼくはこれが夢であることを悟った。
 草木は揺れるがぼくは風を感じない。見える世界は奥行きのある二次元だ。こんな世界のなか、ぼくだけが変わらず三次元のものとして存在しているのだろうか。なんてつらく見苦しい。ぼくは遥か遠くに動く影を目にとめた。距離はあるが視界が開けているからか見とめることはひどく容易い。ぼくはその影に駆け寄ろうと身を乗り出す。しかし足が地面に固定されたかのように動かない。反動で身体はおおきく後ろに傾いた。現実には在りえない不思議な色をした空が視界を覆う。せばまった喉からかすかに息が漏れる。名前を呼ぼうとした。閉じた目蓋の裏が仮初の陽光を透かして赤い。ぼくはあの影を反芻する。なびいた髪や服越しの身体の線を思い出す。この世のものとは思えない美しさ、あれは二次元の世界のものだ。
 地に落ちる瞬間、ぼくは一人の女性の名前を口にした。最近一部の界隈で人気なライトノベル発のアニメのサブヒロインの名だ。

 ブラックアウト。浮上した意識の末、目を開いた瞬間ぼくは猛烈な嘔吐感に襲われた。トイレに駆け込み胃の内蔵物をすべて吐き出す。最悪な朝だ。それでも今日は平日で、学校もある。随分と早く目が覚めてしまったようだ。ぐったりしながらトイレをでてリビングの時計を確認すると、まだ四時を少々すぎたところ。もう一度寝る気も起きない。ぼくは緩慢な動作で水を一杯注いで飲むと、インスタントコーヒーの粉末をカップに入れてコンロのヤカンに火を点ける。
 習慣でテレビとDVDレコーダーの電源を付けタイトルリストを表示する。必要に迫って見るべきアニメもないが、BGM代わりにとなんとなく撮っておいたものを再生した。キャラだけでまったく内容のない萌えアニメ。意味のないサービスカット、意味のないエロシーン。くだらない、非常にくだらない。でも可愛い。
 時間に余裕があるから今日は弁当でも作ろうかとぼんやり考えてみる。しかしなんだか動くのが億劫だから却下。なんだろうこの倦怠感は。ひどく疲れているし、頭が霞みがかっている。寝起きであればいつものことだが程度がちがう。なんだろう。まるで自慰で達して、そのだるさのなか眠りに就いてしまったあとのような、
 そこまできて、やっとぼくの頭は動き始める。だらだらとフラッシュバックと再生巻き戻し早送り織り交ぜの映像音声感覚が流れ始めても、ぼくのどこかは頑なにそれを拒否した。頭ががんがんする。
 いいですよ、そう彼女は言った。なにが、なにがだ。少々考えて理解する。彼女はぼくが彼女を好きだと、思っていないが思っているけれど思っていない。つまりはどちらかわからない。ぼくも彼女も。それで態度や姿勢を決めあぐねている。彼女はぼくを一般男子高校生として考え判断した。その判断はまあ違っていなかったが、間違っていた。それはだめだ。それではだめだ。彼女はもっとストイックにぼくに迫るべきだった。それが一番の彼女の非だ。つつしみに欠けた女性は好きじゃない。大和撫子が好きだ。エヴァンゲリオンならば言うまでもなく綾波レイだ。セーラームーンならマーキュリーだ。しかしぼくは奥手である。向こうがなにのモーションも見せないで、そんな行為に進むことができたのか。いいや、ちがう。そんなことではない。もっと根本的な部分だ。ぼくはそれをしたいのか。
 それから学校に行くまでにぼくは空っぽの胃でもう二度吐いた。最悪の朝だ。

 無言で差し出されたそれとぼくを、彼女は不思議そうに交互に見つめた。
「……いや、なんか、欲しそうだったから」
 少しかすれた声で礼を言うと、彼女はぼくの手からクレープを受け取った。ぼくはすぐに一人だけで食べるのは気を使わせてしまうかもしれないから自分の分も買ってくるべきだったか、と後悔した。しかし隣に座って確認した彼女の嬉しそうな顔を見て安心する。今月はもうすぐ好きなライトノベルのドラマCDと好きな作家(やはりライトノベル)の新巻が発売されるが、クレープひとつ買えないほどの財政難ではないのだ。食費はレシートをだせば親からの支給も受けられる。ぼくの財布に痛手はない。
 ふと彼女に視線を戻すと、ぼくを見ていたのかばっちりと視線が合った。「……なに?」「え、あの」怪訝な顔を慌てて人のいいものに変える。奇妙な空虚と罪悪感。
「先輩、全然わたしに興味ないのかなって思ってたんですけど、意外とちゃんと見てくれてるんだなあ、って、思って」
 嬉しくて。そう言って、恥ずかしそうにけれどほんとうに嬉しそうに笑った。取り繕って笑うことを忘れた。こんなものはごっこ遊びと同じだ。

 ぼくは昨夜いわゆる彼女と呼ばれる関係の人間と、ああもうなんだか言葉にするのもいやだなあえーと、うん。そういうことをしたわけだ。まさか、ただのオタクであるぼくにこんなにも早くチャンスが来るとはまったく思っていなかったとかああもうそうじゃなくて。こんなことを谷に聞かれたら笑われる。たとえば先日体育終わりに教室の黒板にでかでかとエスイーエックスと書かれていたのも、彼のような男の仕業に違いないのだ。狂っている。
「末期だな、ホズミ」「うるさい」「ああもうオタクって本当わからねえなあ」「うるさい」
 体育座りでうずくまったぼくを見て谷はさもおかしそうな声音だ。おかしいことこの上ないのだろう。昨夜のようなことはぼくにとっては一大事でも、こいつにとっては日常で、いつでもどこにでも転がっているのだから。腹の中に入ったものの他にも、昨日のいろいろが喉に突っかかって外の空気に触れたがった。馬鹿にされるのはわかっていた。なら、言わなければよかったのだ。冬本番に差し掛かったベランダはどうしようもなく寒い。それでもぼくらはベランダに寄生する。どうしようもない。
「わかんねえな、なにが気にいらねえ。女ほど面倒くさくて簡単で、面白いものはないだろ。アニメとか漫画じゃあんなものは味わえない」
 浮ついた根性を象徴したように撥ねる谷の髪を引きちぎりたい衝動をなんとか抑えた。どうせ力で勝てないことはわかっている。こいつにぼくのことなんてわかるはずがないことも。うるさいうるさい、そんなもの、ゲームだけで充分だ。
「ヨツヤ。あんまいじってやるなよ」あとが面倒くさい、と小さく付け加えアスが言った。今朝の服装検査で担任に注意された中途半端に伸びた髪をいじっている。谷は相変らずわかったのかわからないのか、作りもののような笑みを浮かべていた。こいつらにわかるはずがないんだ。普段当たり前のように一緒にいても、所詮ぼくとこいつらは住む世界が違う。ぼくは根暗で女子と話す機会などさっぱり持たない窓際族で、一方こいつらは彼女を作って毎日街に出かけるような人間。百八十度、性質が違う。今だってこうして一緒にいるのはおかしなことなのだ。わかるわけがない。今日はさっさと帰ってしまえばよかった。いや、むしろ最初から学校なんて来なければよかった。
「ホズミ」「なに」ひどくささくれ立った声がでる。機嫌悪いな、小さくアスが笑った。
「それで、今日はどうしたのさ」「どうって」
「彼女。一緒に帰ろうとか言われるだろ」「具合悪いって断った」
「ふうん」興味の有無も量れない曖昧な相槌。一方谷はもうぼくのことには興味をなくしたようだ。ぽちぽちと携帯をいじっている。一応聞いてはいるのか、あーあーばかばか初夜明けで向こうはおまえに会いたくて話したくて堪らないだろうにおまえ根暗オタクのくせにホントつみなやつだのとだらだらと垂れ流している。予測するに、ほどなく谷は誰ともない女の元に向かうだろう。絶対だ。賭けてもいい。
 彼女のことを考える。彼女はぼくよりひとつ年下で、ごく普通の女の子だ。飛びぬけて美人ということはないけれど、見るに耐えない容姿でもない。つまりは普通ということだ。どちらかと言えば、すこし可愛いほうだと思う。
 彼女とぼくはなんの接点もなかった。ぼくは急に彼女の友人から呼び出しをくらって、なにやら告白をされた。あのときは本当にリンチの呼び出しかと思った。それはともかくとして、今時の女子校生、ちがう女子高生は話したこともない人と付き合おうとするのか。それは少しいただけないし、理解しがたい。だけどぼくは彼女と付き合うこととなった。受け入れたのではなく、拒否できなかっただけだ。アスには馬鹿だとなじられたが、谷からはそうだよな申し訳なくて断れないよなと賛同を得た。あんな脳の軽い男に賛同されても嬉しくない。だって、前々から気になっていましたって、気になっていただけだろう。好きと気になるは別ものだ。重さがちがう。  どう考えたって、ぼくは彼女に釣り合わなかった。ぼくはただの根暗オタクで、まず女の子と付き合うという行為そのものが釣り合わないのだ。久しく女の子と話すことすらなかった。そんなぼくが彼女のような女の子といきなり付き合うなんてことができるはずがない。レベル上げもせずにいきなり中ボスに挑むようなものだ。勝てるはずがない。
「ホズミ。するのが気持ち悪かったっていうのは、なんで?」「……ぼくが知りたい」「別に三次元の女は凹凸があるから気ち悪いとか、そういうわけではないんでしょ」「……そういうことは思わない」
「ぼくもよくわからないけど、ホズミは女性恐怖症なんじゃないかな」
 自覚したくなかった事象をなんの躊躇いもなく吐かれた。アスの容赦のないものいいは谷なんかよりずっとひどい。ぼくは気付かれないよう小さく項垂れる。なんて苦行だ。オタクであれ、ぼくも恋がしたくないわけではない。したくないわけではないなんてレベルじゃない。したい。青春を謳歌したい。高校時代は人生で三年しかないのだ。
 だから彼女からの告白は、今までの暗い青春を巻き返すチャンスだと思った。なにかで誰かが言っていた、「己を愛してくれるということは、その人を愛するに十分値する要素なのだ」と。ぼくは彼女を好きになれると思った。なろうと思った。なのになれなかった。重かった。現実が重かった。人間が重かった。ぼくは人を、三次元の、同じ世界に生きている人間を好きになれない。二次元ならば、なれる。神の目線で、けして関わることのない女の子たちをいくらでも愛せる。抱くのだって簡単だ。それはどれも、できないから。どうしたって実際にはできないから、できないと頭の奥底でわかっているから、迷わずに思いつづけられる。なにも邪魔をするものはない。好きなだけ思うことができる。女の子が好きだ。クラスの子も街を歩いているような子も。だけど怖い。関わりたいとは思わない。彼女らには感情があって、ぼくが彼女を見るだけでなく彼女らもぼくを見る。ぼくを見て、なにかを思う。だから彼女はぼくに告白をしてきた。ぼくはこれまで女の子と関わらずに生きるよう努めてきた。しかしそれは、無駄なことだったのだ。どうしたって、ぼくが生きているのは三次元のこの世界で、女の子たちはぼくと同じ世界に生きている。話さなくたってぼくは必ずどこかで見られていて、ぼくの知らないところで様々なことを思われ話される。聞きたくない。
「面倒くせえな、恋愛って」
 いじっていた携帯をぱたりと閉じて谷がぼやいた。「だから嫌い」
 ふっと憂鬱ともうつろとも取れる笑みを浮かべると、腰かけていた手摺から身軽に着地する。「俺は女心とかいまだによくわかんないんだけど、処女のときってすげえ痛いらしいよ」人にもよるけど、そう付け加えながら谷は携帯をポケットに滑り込ませて鞄を持った。二歩進んだところで再び携帯が鳴ったらしく立ち止まって携帯を取り出し、開いてすぐにまた閉じる。
「初めてって一度しかないのに気持ち悪いなんて思われて可哀相だな」

 座り込んでいる床と壁に預けた背中がひたすらに冷たい。膝で支えた腕に顔を埋めた。はげしい吐き気がする。ぼくと彼女は、おそらくじきに終わる。そのくらい、ぼくでもわかる。いいんだ、終わればいい。それは彼女のためでもある。こんな男に、構うべきではないのだ。怖い。現実が怖い。相互に関わりあう世界が怖い。
 その風景は尽きることがなかった。夢の世界に果てはない。どこまででも行くことは可能だけれど、時間がそれを許さない。ぼくは遥か遠くに動く影を目にとめる。それは不思議な色と形の入り乱れ移り変わる曖昧な夢の世界のなかで、しっかりと形を保ち確かな影を持ち存在している。風が吹いた。しかしぼくはそれを感じない。つややかな、セミロングの黒髪が静かになびく。いつかのように、そのひとは笑った。
 彼女だった。




(07/11/27)
企画提出「エンディング・ロール