ケーコク イリュージョン




 俺はバンド内でいざこざがあると、必ずこの男にすべてを話す。一連の流れは最早習慣のひとつだ。俺は目の前でレモンティーを飲みながらギターマガジンをめくる男に、ここ最近のことをすべて話した。紙面をすべる視線と左手の指の動きは一定のままだが、女の話になる度に僅かに眉がひそめられることからちゃんと聞いているのだとわかる。初心はからかうとおもしろい。
「おまえさ」「おう」
 丁度十人目の女の話が終わったとき、道利はすっかり呆れた表情をして雑誌から顔を上げた。 「やっとこっち見た」「おまえは寂しがりの女か」思いがけず描いた通りのつっこみが返ってきて、俺はいたずらっぽく笑った。まさかミッチーに女心がわかるとは。言ったら怒るだろうから言わない。
「とりあえずふたつある。ひとつ、おれはおまえが落とした女の話を聞きにきたんじゃない。ふたつ、何度も同じ話をさせるな」「同じ話ねえ……」俺は手持ち無沙汰にジンジャーエールの入ったグラスを弄ぶ。グラスの汗がひやりと冷たい。
「女の話をするのはミッチーの反応が面白いからだろ」「ミッチーって呼ぶな」「なんだよ、レモンはいいのに俺はだめなんだ! いじわる」「やめろ気持ち悪い」「ちえーなんだよなんだよ、どうせアレなんだろ。ミッチーて呼んでいいのはレモンだけとか思ってるんだろ」「思うわけあるか」
 テーブルにあったおしぼりを投げられたから黙ってみた。高校のときからそうだからもう諦めてるだとかなんとか。どうせ思っているくせに。顔面めがけて飛んできたおしぼりをキャッチして、特に意味もなく手を拭いてみる。
「ちょっと、」「おう」「真面目に話すから五分だけ黙れ」「いやって言ったら?」「もうおまえとメールしない」「そんなに絵文字嫌いなのか」
 バンドはひとつの生き物で、時を経れば大人にもなるし、メンバーが変われば必ず何かが大きく変わる。当たり前ながらまったく同じプレイをする人間は後にも先にも世界に一人しか存在しない。メンバーが変わったとき、変化するのは音かもしれないし、曲の傾向かもしれないし、バンドのテンションだったり、運だったりもするかもしれない。間違っても、作詞作曲をしているのが自分だからといって他のメンバーを、極論で言うなれば楽器を演奏する道具だと思ってはいけない。道具が欲しいなら、バンドなんて組むな。一人でも音楽はできる。
 これがだいたいの道利の説教の内容だ。大抵いつもこんなようなことが話される。
 長々と話されるがあいつの言いたいことは至ってシンプルで、『バンドはおまえのものじゃない。なにもかもが自分の思い通りになると思うな』、わかっている、なんて正論。わかっている。
 スズメもタクヤも悪いやつではない。しかしそれで俺たちがうまくいっているのかというと、またなんとも言えない。スズメはなにを考えているのかさっぱりわからないし、タクヤとはすぐに言い争いになる。曲についてのことから日常的なことまで。元々メンバーの入れ替わりの激しいバンドだ。最初からのメンバーは俺とタクヤで、ベースが頻繁に変わってギターやキーボードはいたりいなかったり。今は俺とタクヤとスズメの三人でthe disposable brain。スズメは随分続いているほうだ。それだって、いつ変わるかはわからない。タクヤだって同じだ。気がつくともうあいつと会ってバンドを始めてから七年で、未だに会う度に喧嘩ばかりしている。よく飽きないな。何度も解散すると言ったし実際解散したこともあるし、他の人とだってバンドをした。色々なドラマーがいたけれど、人間的な相性は多分最悪なのだけど、どんなにひどくケンカ別れをしても俺は結局タクヤとバンドを組む。最終的に帰ってくるのは同じ場所。なんという腐れ縁。大概にしたい。
 ふざけるのも面倒になって、俺は不安も悩みも包み隠さず、いや一部は隠して、ほんの少し恥も捨てて道利にどうするべきか相談してみた。俺に年功序列ってないのよね。己の頭が悪いことを理解しているから年下に訊くことも恥ずかしくは思わない。そういった感情は麻痺しているのだろう。なのにあいつ、「悪いけど、人の人間関係について考えてる余裕はない。おれだって、紫香楽さんとか灰原とか、未完とか、わからなさすぎて困ってる。こっちが助けてほしいくらいだ」って。なんだかなにかが腑に落ちない。でもいいか、仕方がないか、あいつはそういうやつなんだ。愛想も悪いし友達も少ない。理論は頭の中で組み立てられたことでまだ実践はされていない。俺に比べれば頭はずっとよろしいが友達の数なら俺のほうが多いのだ。俺だって多くもないが。大体今あげられたのだって、結局のところレモン以外全員じゃないか。人間関係については専門外らしい。
 頭の中を巡る色々は制御せず流れるままにして、たらたらと街を歩く。街路樹は恥かしげもなく幹も枝も剥き出しで、季節はすっかり冬らしい。そろそろマフラーを出すべきか。去年どこにしまっただろうか、憂鬱になることは考えないよう無理やり頭を切り替えた。もうすぐクリスマスだとかいうイベントもあるけれど、特定の相手のいない俺はどうせ今年も行きずりだ。良くて電話帳の中の誰か。俺はその日、特定の相手がいなくて寂しがっている女に都合のいい奴として利用される。利用しているのは俺も同じだ。利害関係の一致。ああくそ世の中のカップルがにくい。他人に与えられる無償の愛、なんだそれ。
「ねえ」振り返ると知らない女が立っていた。上から下までざっと見る。並。黒ストッキングは好感度良。
「なに」笑顔を作るべきか冷たい素振りをするべきか、相手が好きなのはどちらかを瞬時に判断してそうする。そんなことは簡単なのに、いつまで経ってもタクヤとだけは諍いなく付き合えない
「いま、暇?」「ああ、すげえ暇」
 もう自分から話し掛けるのも面倒だったから有り難い。見たところ大学生かフリーターか。ギャルというほど派手な格好でもないが、向こうも慣れているのだろう。よくあるやり取りをして、最初からそうだったかのように腕を組む。だけどいまいち気分は乗らない。
「どこ行こうか」「あっち」
 迷いなく指差された方向を見て、考える必要もなく流れがわかる。まだ日は落ちきっていないのに、センスの感じられない派手なネオンが瞬いていた。気分が乗っても乗らなくとも、どうせやることは同じなんだ。どこ行きたいって、別にそういうのだけじゃなかったんだけどな。わざわざ逆らう理由おない。簡単でいいね、ほんと。

 今回のケンカの原因はなんだったか。さしずめどこのベースがDかAかだとか、ドラムのハイハットの要る要らないだとか、そこのバスをもっと重くとか多い少ない、踊りすぎだとか抑えすぎだとかそんな類のことだろう。それとももっと日常的なことだろうか。なんにせよ、きっと言葉にすれば阿呆らしい。だけど、曲作りにおいて妥協だけはしちゃいけない、と、そう思う。紛いなりにも音楽をする人間として、俺は俺の目指す場所へと己に一ミリの妥協も許さずマイシンするしかないのである。道利ならわかってくれるはずだ、こういうの。なのにバンドは一人のものじゃないんだからちゃんと他のメンバーにもなんとかかんとか。あいつの話は理想論だ。だけど正しい。そしたら俺は俺の目指す場所に辿り着けない。なんて矛盾。やはりソロにしたほうがいいのだろうか。
「で、来週ライブがあると」「そうそう。ケンカする前から決まってたんだけど、あれからスズメともタクヤとも連絡取ってないし、新しい曲もできてないし。一人で出ようかと思ってんだけど」「無理だろ」
 一切躊躇のない道利の切り返しに俺の心は少し傷ついた。嘘です。
「一人って、打ち込みでもするのか」「しない、アコギ一本。あ、道利本番だけでいいからエレアコ貸して。俺持ってない」「いや無理だろ」「エレアコくらいでケチケチすんな」「そっちじゃねえ」
 心底困ったと言いたげな表情で道利が頭を抱えた。なぜおまえが頭を抱える。抱えたいのは俺の方だ。
 色々と考えているのか、下方斜め四十五度を見つめながら道利はぶつぶつ呟いている。完全に思考を回すためだけの言葉は俺までは伝わらない。道利も苦労性だな。他人のことで悩み過ぎだ。
「ヤツヤ」「おう」
「諦めろ」「嫌だ」
 そんな諭すような目で見るな。おまえは俺の親か。いつつも年下のくせに。
「おまえの声は弾き語り向きじゃない」「知ってる。でも一週間前にライブ断るなんて今後のディスポサの信用にも関わるだろ。絶対無理。俺は出る」
「そうじゃなくて」「じゃあなんだよ」
「仲直りしろって」あ、そっち。
 それが一番円満だろ、うんまあ確かにそれはそうかもしれない。けど、
「今更謝りづらい。それに悪いのは俺だけじゃない」「ガキか」
 正面に座る道利が盛大にため息を吐いたのをぼんやりと視界の端で見た。ガラス一枚向こう側では人々が忙しそうに歩いている。ここは温かいが、向こうはすごく寒いんだろうな。もう一生ここで暮らしていたい。椅子は座り心地がいいし、本当スタバって神。ジンジャー系とか開発した人天才。でも高い。低めのテノールな道利の声は、するすると右の耳から左に抜ける。俺から抜け出た声がどこかの女の耳に入って、そこから恋が始まればいい、なんて考えてすぐに打ち消す。こいつに彼女ができたらからかい甲斐がなくてつまらない。一生ギターが恋人でいてください。で、音楽が愛人。悪い男。あ、でも、レモンならつきあってくれて構わない。
「聞いてないだろ」返事の代わりに対女用によく使われる笑顔を作る。あからさまに嫌な顔をされた。
「あのさ」「いい加減くだらないこと言ったら次会ったときにグレッチで殴る」「うわ、今のりんごが聞いたら喜ぶだろうなあ」「それで」
 うん。ガラス一枚向こうの人たちは、きっと俺以上に面倒くさい人間関係に囲まれて生きているのだろう。高校時代の友人であるアスカは、きっと相当に面倒くさい因縁怨念ドロドロとした人間関係の世界に生きているのだろう。俺なんてぜんぜん楽なほうだ。楽も楽だ。本音の必要な付き合いなんて、バンドと道利くらいのもの。楽しんだよな、バンド。じゃなきゃこんなに続けてないよ。もう何年、タクヤとバンドをしてるんだろう。ライブとかほんと最高だし、スタジオで合わせてるだけでも、めちゃくちゃ楽しい。うわー生きててよかったって思う。いや、実際そう弾いて歌いながらそう思うわけじゃないんだけど。
「スズメさ、今までで一番続いてるんだ」「らしいな」「今のディスポサ、すげえ好き」からんとジンジャーエールの氷が鳴った。
「あいつらとバンドを組めて良かったと思ってる」
 レンズ越しの道利の目が驚いたように丸くなる。声にするでもなく珍しい、と小さく漏らされたのを聞き逃すわけがない。じわじわと照れくささが押し寄せてきて、俺はそれを誤魔化すように笑った。それ、本人たちに言ってやれ、そう言って道利も少し安心したように僅かに笑った。そんなまさか、こんなこと。恥ずかしくて言えねーよ。

 と、結局仲直りどころかやっぱり連絡のひとつも取っていないわけですが、時間は人間誰もに平等に降り注ぐわけで、ライブの日もまた、無情にも俺に訪れるわけです。
 おまえがよくわからんと言いながらも貸してくれた道利のアコギを持って、ライブハウスへと入った。俺だって女と遊んでばかりいるわけじゃない。ちゃんと一人でもばっちりなようアコギ一本でいける曲を用意したし、バンドの曲も何曲かアレンジした。道利は腕はいいがまだ若いし実践が少ないからそういう点では俺に負けるよ。コピーのほうはキャッチーにsyrup16gの「Reborn」だ。道利にはおまえがシロップを歌うなんてスピッツの草野マサムネがミスチルのシングル曲を歌うようなもんだと止められたが、俺はそう止められて容易く止まる人間ではない。俺は俺のやりたいようにやる。今はどうせ合わせなければならない人間もいないんだ。大丈夫、一人でもやれる。
 控え室でチューニングをしながら、ぼんやりとやっぱり謝れば良かったかななんて考えている自分に気がついて嫌になる。でも、今更遅い。もう遅い。出番はすぐだ。
 まず、ステージの広さに眩暈がした。いつもは狭く感じていたはずなのに。一人じゃ準備もすぐ終わる。真ん中に立ったマイクスタンドの前に立つ。リハーサルは一度したが、客が入るとまた違う。人気バンドほどの熱はなくともそれは十分に圧巻だ。油断したら足が震えそうだった。くそ、なんだこれは。スポットライトがひどく寒い。こうして一人でステージに立つのは初めてだ。
 一曲目は二、三回のライブで一度は演奏する初期から持っていた短めのバラードで、恐らく持ち曲の中では一番弾き語りにしても違和感のない曲だ。最後に持ってくるか迷ったが出し惜しみはしたくない。そんな脳は持っていない。セットリストを決めながら、後悔するかもしれないと思わないでもなかった。
 二分半が恐ろしく長い。客の視線が暗いサングラス越しでもいやになるほど感じられた。こんなに居心地が悪いのは初めてだ。俺の声だけで何分保つのか。問題はそれだけだ。彼女とケンカをする前にしていた約束の待ち合わせの時間に待ち合わせの場所で、寒空の下、男が彼女を待っているのだ。あの娘が来ない。まだ怒っているのか、あの娘が来ない。我ながら最高にチープな歌詞だ。妙に男と今の自分が被って居心地悪い。この曲をセットリストの最初に持ってきたのは、境遇が同じであるからでなく飽くまでアコギ一本で演奏できそうだったからというだけだ。それ以上の意味はない。マイナーコード一本一本の弦を丁寧に弾いて曲が終わる。静寂の中にアンプの起動音だけが浮遊していた。
 いつもは心地よい演奏後の沈黙も、今日は刺さる様に冷たく痛い。早くも飽きを感じ始めた人間がいることが空気でわかった。七年のバンド活動は伊達じゃねえよ。自身の声の軽さに自覚はある。セットリストは残り五曲。これは保たないな、そう直感すると絶望と同時にそれとはまったく異なった欲望が競り上がってきた。煽りたい。このぼんやりと突っ立ってステージを眺めているだけの乾いたやつらの腕を上げさせたい。叫ばせたい。ここではなんの意味も成さない浮世のことをすべて頭から吹き飛ばしてやりたい。煽りたい、煽りたい!
「ごめん」
 静かな会場に俺の声が反響した。マイクを通した声が人間たちに吸収される。「あー……その、なんだ」盛り上がらないのは、怖いよ。でも、一番悔しいのはそんなことじゃない。そういうことじゃない。
「俺、やっぱ、おまえらとバンドしたいよ」
 ネタだと思っているらしい好奇の顔が並んでいる。動きはない。まだ怒っているのだろうか、くそ、人のことは言えないが大人げない。客の中には呆れたような楽しんでいるような顔をした奴らもいる。俺たち、というか俺とタクヤの間に争いが絶えないことを知っているのだろう。俺たちのケンカの多さは雨離のベースが変人だということと同じくらい有名だ。馬鹿だと笑うだろうが、いつも俺たちは真面目に言い争っているんだ。言い争いを経て奴らも望むような曲ができているのだから、文句なんて言わせない。あまりの反応のなさに再度口を開いた。本当は互いにわかっているはずだ。言い争いも自分の作品に他人の感性が混ざることも、なくなってしまえばもの足りない。面倒でもなくなっちゃいけない。
「ばーか」
「でっ」顔面に水の入ったペットボトルが当たるのと同時に、聞きなれた悪態の声があがった。声の方を見ると、見慣れたジャージが立っていた。客を掻き分けてステージの前に立つと、次いでギターケースが投げられる。下げているアコギにぶつからないよう受け取った。最近よく物を投げられるな。ギターケースを見てタクヤを見ると既にステージに上がり、ドラムセットをいじっていた。遅れて客を掻き分けていた長身作務衣が柵に足を乗せ、とんとステージに立つ。天然無造作とも作られた無造作にも見える長い髪が揺れた。「スズメ」「喧嘩するほど仲が良い。仲良きことは美しきかな。わかりあうための喧嘩は善事。そう私は思ってる」見慣れすぎている隙間なくステッカーの貼られたトランクを突き出すように渡されて、開けば並んでいるのはもちろん俺のエフェクターたちだ。こちらを見ずにベースを取り出しシールドを繋ぐ。「あまりぎりぎりなのは感心しない。様々な箇所に多大な迷惑が生まれる」え、なんで持ってんの。家に置いてきたはずだけど。
「おまえ、あんなこと言って俺ら見に来てなかったら最高格好悪かったよな」たん、と軽快にタムが弾む。「……来てないなんて考えなかった」「こんなに対応良いとも思ってなかったろ。いいからさっさとギター出して準備しろ。時間もない」
 ケースのチャックを開けると中には見覚えのある濃青のレスポールが入っていた。やりやがった、あの男。俺はそのギターと同色の髪をした音楽バカを思い出す。せめて貸してくれるならストラトにしてほしい。いいえ贅沢は言いません本当に嬉しいです。今度会ったらシングルの一枚でも奢ってさしあげますよ、道利さん。
 タクヤはとっくに座ってスティックを構えているし、スズメもこうして当然とでも言うようにいつも通りジャズベースを弾き腹の下に響く音をだしていた。すっかり定位置に戻って思いの他安心している自分に呆れる。そして、俺がそうなるほどのメンバーに出会えたことを嬉しく思う。単純だよな、馬鹿らしい。ああ、昂ぶってきた。
「仕切り直してこんばんは。the disposable brainです」
 申し訳程度の挨拶をしながら軽くチューニングをする。目の前の欲望に喰らいつく為ならばどんな労力も惜しみはしない。汗で滑ったピックを持ち直し構えた。熱を感じる。腕を上げろ、叫べ。俺は数瞬後を想像して堪え切れず不適に笑んだ。求める場所はもうすぐだ。
「『蜃気楼』」




(07/12/12)