薄く緑がかった暗い青のフレームは蛍光灯の光を受けてつやつやと輝いた。まるで飴のようだ。ギシリと椅子が大きく鳴る。お洒落でちょっと可愛くて、最初はなんだか恥ずかしかった。しかし貰った手前、着けないわけにもいかない。毎日着けていれば自然と慣れた。思えば、誕生日でもないのにものを貰ったのは初めてだったかもしれない。毎日着けた。 お待たせしました。呪文のように長い珈琲の名を紹介すると、ウエイトレスは向かいの男の前にカップを置いた。何度聞いてもその名前が覚えられない。苦手なんだ、片仮名は。高校のときも日本史に比べて世界史はさっぱりできなかった。白い腕に刻まれた藍色の模様に目を奪われて、意識せずに目で追った。 「好みだった?」 おれにはなにが入っているのかもよくわからない珈琲のカップを傾けながら黒木が小さく笑った。 「……や、腕」「ああ」 「いいな」「エロいよな」「え、なにが」「なんか」 黒木の言うことはたまによくわからない。よく冷えたアイスティーをすする。 「いんじゃない」「なにが」 「刺青。少しは締まるかも。おまえ、ふわふわしてるし」 「ふわふわ?」「なんか、おのぼりさん」 「う、」「食われるよ」「……なにに」 「関わらないほうがいいやつとか、女に」「女に?」「声でかい」「なんだそれ」「そういうもんだよ」「わからん」「田舎者だもんな」「うるさい」「事実」 否定できない。ふわふわ、ふわふわしているのかおれは。慣れない都会に来て浮ついてるというか、しかし、もうこっちに来て三ヶ月が経っている。ラッシュアワーだって、もう平気だ。身も心も完璧都会人、というわけにはいかないけれど。 最初に比べればずっと慣れた。これでも。二月、受験で来たときは本当に死ぬかと思った。ぐるぐるのへとへとだった。第一志望の国公立なのに、こんなところに住まなければいけないならもう受からなくてもいいとすら思った。やはりオープンキャンパスは行くべきだったな。思いのほかおれは人ごみに弱いらしい。受験勉強の最中、すっかり切るタイミングを失って伸びてしまった髪をとめていたゴムは電車の人ごみにもまれてまぎれて行方不明。コンディションは最悪だ。受験会場で近くの席に座っていたその男はゆるい天然パーマの髪といいワイシャツやズボンに靴といい、すべてが真っ黒だった。それが一層日の下に立ったことがないとしか思えないほどに白い肌と目に鮮やかな蛍光ピンクのベルトを際立たせていた。周りの受験生たちが最後にひとつでも多くのイディオムを詰め込もうと必死で参考書を捲る傍ら、その男は机に突っ伏して眠っていた。余裕綽々だ。記念受験だろうか、しかし国公立大学を記念受験するやつなんてそういるのだろうか。休み時間、開いた参考書をおにぎりで押さえながら黙々と昼食を取っていると、目の前に黒いプラスチックの櫛を渡された。「髪、なおしたら」面食らいながらも反射的に受け取って、目を上げると眩しいほどの黒。こんなときに他人に構うなんておかしなやつだ。 おれは幸運にも第一志望の国公立大学に合格した。あの男に会うことがあれば、返しそびれた櫛を返すつもりだった。しかし困ったことにおれは人の顔を覚えるのが苦手だ。なにしろまずあの男の顔をしっかり認めていなかった。黒と白と蛍光ピンク、覚えているのはそれだけだ。しかし心配は杞憂に終わった。あの日と同じく真っ黒な服。正しくインブラック。ホワイトインブラック。そんな感じ。幸い向こうも俺の顔を覚えていたらしく、「ああ、あのときの、」なんて。意気投合はしなかったが、なんとなくおれたちはよく行動を共にするようになった。 乗る人たちや人の量こそ違うものの、電車の走る音はおれの住んでいた街のそれとそう違いは見られなかった。故郷と変わらないものがあることは嬉しい。 「勿体ないな」「なにが」 恐らくおれが唯一の友人と呼べる友人である黒木音々は、そう常識を逸してはいなかったが普通と呼ぶにはどこか妙だった。おれと同じ十八だというのに世間を見る目はひどく冷めていて、物腰は落ち着きとても大人びていたが、音を重ねて「ねね」と読ませる自身の名を女のようだからという幼稚とも言える理由それだけで嫌った。彼が自身を名前で呼ぶことを許していたのは、おれが知るうちでは彼女だけだ。彼女もまた、平凡でありながらどこを探しても見つからないような女性だった。 知らない土地に来て引きこもりがちなおれを黒木はそこかしこに連れまわした。白い肌は生来のもので引きこもりではないらしい。かたんかたんと電車は揺れる。 「道利さ、顔は悪くないと思うよ。でもださい」 「……直球はやめてくれ」 「じゃあ、服装にまったくセンスが感じられない」 「変わってない気がする」「変えてないしな」 話しながらも文庫本を捲る手は止めない。黒木は気紛れだ。思い立てば人の都合は顧みない。彼女に関することであれば少しくらいは顧みているのかもしれないけれど。今朝も、なんの前触れもなく出かけようと呼び出された。断る理由も予定もない。言われた通りの場所に向かえば、ひどく上機嫌な黒木がいた。めずらしい。なんでも中距離恋愛中の彼女が近々遊びに来るらしい。電車で向かった先は、おれ一人では入る気も滅入るようなファッションビル。何度もいいと言ったのだが、安めのところで買うし、今は丁度バーゲンだからと押し切られた。おれの意見は聞かず黒木はぐいぐい進んでいくので、おれはそれに付いて行くしかない。 「これ」 棚の上に畳まっていた服を広げておれに向ける。「サイズ」ぞんざいに投げられたそれを受け取ってタグを見る。その間にも黒木はどんどん店の奥へと進んで行った。ズボンと上着(どれも正式な名称はよくわからない)も渡されて、試着室を指差される。素直に従って靴を脱ぎながら恐る恐るタグを見ると、確かに、先の宣言通り恐れるほどの値段ではなかった。それでも普段てきとうに買っているものよりは高い。 「しょっぱいな、男二人で服の買い物」扉の向こうからはあ、と溜息が聞こえた。 「だったらこんな世話、焼いてくれなくていい。頼んでない」 「おれのためだからな。ださい格好のやつに隣を歩かれたくない、誰だってそうだろ」 「……おれはすごく格好いいやつには隣を歩かれたくない」 「それおまえ、おれのこと格好悪いつってるのか」 「それ自分は格好いいって言いたいのか」 「好みの問題だな」 「黒木は格好いい」 「それはどうも、じゃあおれの隣を歩いても恥ずかしくないような格好をしてくれ」 黒木は世話焼きだ。かなりの。 黒木の彼女に会った。折角久々に会うのだから二人で会えばいいのに、なぜかおれも誘われた。可愛らしいとも綺麗とも美人とも、どの言葉もそれなりに似合うようなどの言葉もうまくは当てはまらないような、見たことのないタイプの女性だった。帰りの駅のホームで彼女の兄へのお土産を選んでいる途中、彼女がひっそりとおれに「あのね、音々が自分から人の話をしたのは道利さんがはじめてだったんです」と耳打ちした。だから会ってみたくて。そこで定番のばなな味のおかしの箱を持った黒木が振り返る。おれの前で春奈と内緒話とはいい度胸だな。そう言って笑う。いつかおれも遊びに来るように行って、春奈さんはここを出た。 「すごい。天然記念物と言うべきか」 「なんかおまえに褒められると嬉しいけど嬉しくないな」そう言いながらも嬉しそうだ。顔が緩んでいる。当たり前のことだろうけれど、黒木も人間だったらしい。 「かわいかったな」「やらねえよ」「奪わねえよ」「は、奪うだと。おまえが。おれから。死んでもむりだな、身の程弁えやがれってんだ」「だから奪わないって言ってるだろ」「奪えねえよ」悪態を吐きながらも笑っている。本当に、随分と機嫌がいい。しかしあれは黒木がべた惚れなのもわかる。可愛らしい人だった。呪文のような珈琲の名前と共にカップがテーブルに置かれた。視界に入る精巧な藍色。軽く一礼をしてウエイトレスはテーブルから去る。 「へえ、道利バンドなんてしてたんだ。っていうか、おれ以外に友達いたのか」 「意外そうに言うなよ」「意外だろ」 「……友達じゃないし」 「それっておかしくないか。しかし、ふーん。ライブねえ」手持ち無沙汰にカップを弄んで、まだ熱いとわかっているのに一口流す。それで熱いといやな顔。おれはアイスティーだからそんな心配はない。ガムシロップとレモンを入れてストローでかき混ぜる。からからと鳴る氷の音が涼しげだ。 「こなくていい。くるなよ。こなくていいからな」 「見られて恥ずかしいようなライブをするなよ」もっともだ。「なんていうか、だめなんだ」「なにが」 「うまくいかない」「なにが。音楽が、人間関係が」 「両方」「辞めれば」「う、でも、」 「でも、なんだよ」お世辞にもいいとは言えない目つきでおれを見る。わかっている、わかってはいるんだ。黒木にはおざなりの言い訳なんて通用しないことも。 「やっと、組めたんだし」 「バカ。音楽性も合わなくて人間関係もうまくいかないのに、バンドする意味なんてないだろ。おれはしたことないからわからないかもしれないけどさ。そんな状態のおまえにいられるのって、他の人にとっても迷惑なんじゃねえの。 この街だけでもこんな、腐るほど人間がいて、楽器をしている人だって腐るほどいるのに。その中におまえが納得できる人間だっている。なのにどうして、」 正論は痛ましいまでに人を抉る。気がつけば、黒木の珈琲はすっかり白い湯気を消していた。 周りから聞こえるぼやきは教授の講義を退屈だつまらないとそれと言った理由もなく罵るものがほとんどだったが、おれはそうは思わなかった。黒木もそうであったようだが、教授の講義の至らない点については容赦なく不平不満を漏らした。それでもほかの人間の吐く焦点のぼんやりとした文句よりはずっと聞ける。黒木はおれの耳のイヤフォンを剥ぎ取りにやりと笑った。 「サボろう」 いつもおれは黒木の左隣を歩く。黒木は右側、彼女と歩くときもそうだった。それでおれは考える。もし、もしも三人で並んで歩くことになったとき。どんな順で並べばいいのだろうか。やはり黒木の左隣は彼女に譲るべきだろうか。また、もしいつかおれに恋人ができるとき。そのひとが必ず人の左隣を歩く人間だったら、おれはどうすればいいのだろう。 はと気がついてだらだら流れ出ている言葉を止めた。見ると彼女は変わらずにこにこと笑っている。 「……ごめん、つまらないよな」 「いいえ。道利さんっていつもあまり話さないので、話の内容はよくわからないですけど楽しいです」 「そうか、よかった。今後気をつける」 「それにしても、あれですよね」「うん」 「ギターって瓢箪に似ていますよね」 「……」 超文学系頭脳派の恋人は清純派だが頭はとても弱いらしい。しかしこの笑顔を見ると、とてもじゃないがなにかを言う気にはなれなかった。携帯を持たない彼女の代わりにおれの携帯が鳴る。言うまでもなく、黒木からだ。 若いウエイターが呪文のような名前の珈琲をテーブルに置いた。おれはずっと先に運ばれていたアイスティーをすする。 「……れ、」「ん」狭い店内を見渡した。 「あの店員、いないな」 「やめたんじゃないか。バイトって回転早いし」 薄暗い店内の光に照らされたあの白い腕を思い描く。何度も見たはずなのに、どうやってもその模様を正確には思い出せなかった。結構、いい声をしていた。あのメゾソプラノをもう一度聞きたい。そうだ、世界はおれの忘れているところで絶えず回っていた。 目が眩むほどの光。なにも見えない。大勢の客を前にしても気分の高揚はなかった。緊張はしていないし不安にもならない。奇妙なほどに、落ち着いている。緊張をしないのは、有り難いことだ。真っ白な照明が肌を焼いて汗が滲んだ。横隔膜が押し下げられて肺いっぱいに空気を吸い込んでもまだなにかが足りなかった。おと、音だ。音が、もっと音が欲しい。音、音。だめだたりない。違う。涙もでない。ピックごしに弾く弦の感触が指にびりびりと伝わりしびれる。だめだ、だめだ。ちがう、そうだ。もう、もう、既に満たされているのだ。音も涙も、空気すら、入り込む隙がないくらいに、おれの中は満ちている。おれは満たされている。溢れるほどに詰め込まれた、空虚。空虚空虚空虚空虚空虚空虚空虚空虚空虚、 「みちとしさん」彼女とは、もう何度も会っていた。いつだって彼女はにこにこと笑っていたけれど、流石に、このときばかりは笑ってはいなかった。「うん」 「こういうときって、なにを言えばいいんでしょう」もう十分に泣いたあとらしく、彼女の目は痛々しいほどに腫れていた。なるべく見ないようにする。それでもまだ足りないのだろう、彼女は小さく嗚咽を漏らした。 「春、奈さん」「うん」隠しているつもりなのか、そっぽを向いて素早く涙を拭う。 「……ごめん。おれも、なにを言えばいいのかわからない」 そうですよね、細い声で言って力なく彼女は笑った。なにがおまえには奪えないだ、彼女にこんな顔をさせて。 気が付かなかった、悲しくなるくらい閉じた狭い世界で生きていたこと。 「一生分だ」「なにが」 「服。今日だけで一生分買った気がする」 「バカ、秋物と冬物しか買ってない」 服がこんなにかさばるものだと初めて知った。飽くまで選ぶだけらしい。おれがいくつも紙袋を抱える横で黒木は手ぶらだ。 「あ、そうだ」「ん?」「ほら」尻ポケットから出したそれを、おれが抱える紙袋の上にぽんと乗せる。バランスを崩しかけたがなんとか態勢を立て直す。 「なんだ、これ」「眼鏡」「それはケースを見ればわかる。眼鏡は今特に必要ないんだけど」「まあそう言うな」「いくら?」「金はいい」「え、」「やるよ。プレゼント」 度もしっかり合っていた。一体これはどういうことだ。謎は一生謎のまま。明かされることはない。 最初に来たとき以来だ。薄暗い光の中でメニューを眺めた。もっと明るい照明にしたほうがいいんじゃないのか。さらに目が悪くなりそうだ。珈琲の欄を上から下までざっと見て、すべての名前を字から音に変換し再生する。あの呪文のような名の珈琲。だめだ、どれだかわからない。呼んでもいないのに若いウエイターがお決まりですかとやって来た。せっかちだ。まだ決まっていませんとも言えず、仕方なくいつもの様にアイスティーを頼む。メニューもウエイターに持っていかれてしまった。記憶を頼りにあの名前を思い出そうと試みる。語感までは思い出せる。しかし推測しようにもメニューはもう手元にない。お待たせしました、BGMのように耳に馴染んだメゾソプラノ。頭の中で、自然とその声で珈琲の名前が再生された。ああ、そうだ。そんな名前だった。 「今日はお一人なんですね」 僅かに音を立てておれの前にコップが置かれ、藍色の模様がかちりと音を立てて記憶の中のものと噛み合った。向かいの席は空っぽで、代わりにギターケースが立てかけられている。先刻、バンドを辞めてきた。 彼女、春奈さんがここに遊びに来ることは、恐らく、もうない。傷一つないフレームに触れ、ずれた眼鏡を定位置に直した。心機一転、新しい眼鏡はメタルフレームだ。時節は春になろうとしていた。ここに来てから一年が過ぎた。 1R、家賃は月五万八千円。実家から持ってきた父のお下がりのベッドに仰向けに寝転がる。ヘッドフォンの中だけで展開される音楽が液体となって耳から入り、空虚を追い出して脳を全身を満たしていく。今日が昨日となり去ってしまうことを恨んだこともあった。音楽は終わる。音は途切れる。それでも耳の奥に、耳鳴りのようにこびり付いて離れない。たぶん、一生。 「……レモン」「ミッチー」 急いでいたわけでもない。その姿を認めておれは立ち止まった。向こうもそうだったのだろう。会話をするにはいささか遠すぎる中途半端な距離を挟んで向かい合う。「久しぶり」「そうだね」周りの人々は止まらず歩きつづけていた。横断歩道の真ん中で立ち止まったおれたちを疎むような素振りすら見せない。 「ずっと言わなかったけど、おれ、おまえのピアノがすごく好きだった」 らしくないことを言い出すおれに、うん、とレモンは首を傾げた。らしくない。黒木は意地っ張りで頑固だから自分の不利になりそうなことは絶対に言わなかったけれど、言いたいことや本当に言わなければならないことは臆面なくずばずば言った。背はそんなに高くなかったけれど姿勢がよかったし、なにより佇まいに迷いや躊躇といったものがなく堂々としていた。あんなふうに、なりたいと思ったのだ。彼の様々な側面を知る毎に。 黒木から貰った眼鏡は壊れてしまった。完全に俺の過失だ。人の波に揉まれ逸れたそれと再び合間見えることができたとき、それはもう数時間前からはおよそ想像できない見るも無惨な姿となっていた。縁は傷だらけでひしゃげ、外れたレンズはとうとう見つけられなかった。それでもその眼鏡の残骸を捨てなかった。捨てられなかったわけじゃない。なんとなく、捨てないでいてみただけだ。物じゃ感傷には浸れない。 「おれと、バンドしないか」 音。音だ。音を作らなければならない。いや、作りたい。空虚と共に住める音や、耳鳴りに調和する音を。 (08/03/17) |