ノントレランス




 彼は昨年の冬の半ばからこのバンド、雨離(あまざかり)にサポートメンバーとして参加していた。二年前にギターとベースとキーボードが就職を理由にバンドを辞めてあおいと久仁臣が新しく入ったことを機に、雨離は完全椎名林檎コピーバンドからオリジナルに重きを置いたバンドになった。オリジナルではキーボードを用いない曲が多かったから、メンバーとしてのキーボードは必要なかった。しかし椎名林檎や東京事変を演奏するとなると、キーボードの存在はどうしたって欠かせない。しばらくは仕様がないので編曲で補うなりキーボードの少ない曲をするなりしていたのだがそれではりんごが納得しない。長いこと募集をし人づてに探した結果、彼が正式に雨離のサポートメンバーとなったのだった。彼の専門はギターであったそうだがキーボードの腕も申し分なかったし、勤勉であったので仮令至らない点があったとしてもその穴は速やかに埋められた。なにより彼の音楽への愛は、人間のそれを超越していた。少なくともぼくにはそう感じられた。音楽に対する彼は、イエスにも劣らぬ寛容さを持ち合わせていた。元より彼は自己主張の少ない人間であったし、自身の考えを人に押し付けるようなことはなかった。意志こそ溢れんばかりに抱えてはいたものの流出することはけしてなく、大抵の時分は彼の音楽への愛のことなど忘れていた。しかしふとしたときに見え隠れするその片鱗があまりに白く眩しくて、直視することが躊躇われた。彼に比べればぼくの音楽への愛など露のようなものであるし、しかも排気ガスを吸ったようだ。なぜそんなにも迷いなく、ひとつのものを愛せるのか。ぼくはひとつの結論をだした。彼は人間ではないのだ。簡単なことである。
 徐々に雨離がコピーをすることは減って、今はもうライブで演奏する椎名林檎の曲は三曲ほどだ。それらも概ねキーボードのなしで演奏できるよう編曲された。その編曲にはりんごも納得している。そうしたこともあって、春の半ばに彼は新しくバンドを組んだ。キーボードは高校の同級生らしい。今まではやはり年齢のこともあり何歩か引いていたのか、彼は唐突に人間らしさを見せる。原因は間違いなくキーボードの彼女であり、その変わりようは彼女が彼と同い年だからだとか、以前からの友人であるからなどといったことだけで片付けられる程度のものではなかった。彼が彼女に恋をしていることは誰の目にも明らかであった。恋。あの彼が。ぼくはひどく興味をそそられた。それがまた、並大抵の女ではなかった。変だった。変人だった。あおいにも相当するほどの。彼の奥手さにはやきもきさせられたものだが、ついに二人は付き合うことになったらしい。よろこばしいことだ、そう口で言い顔は笑みを作りながらも腹の中にはぐるぐる渦巻く黒い塊。ぼくはぼくが恐ろしい。