点滅グリーンライト




 ミッチーは本名をあおみみちとしと言って漢字だと青水道利って書いてそれで青緑でミッチーって言うんだけど、レモンとバンドを組んでいる。キーボードがレモンで、ミッチーはギターボーカル。ミッチーは暗いし人付き合いもろくたましないしギターボーカルなんてできんのかしらとレモンは心配に思っていたのだけれど、再会したミッチーは心なしか今までのミッチーとは違っていて(なんとなくだよ、なんとなく)、ギターの辰ちゃんもベースのグルーミーもドラムのミカンもみんないい人だから、シナプスは本当に安泰だよ。友達がたくさんできた。レモンにもミッチーにも。
「えっそれいつから」
 魚子ちんが洗濯したのであろうまっしろいタオルで汗を拭いながら相変わらずりんごはしまっているんだかいないんだかといった顔だ。「一週間くらい前だったか」と室内唯一まともにふわっふわにやわらかい椅子を陣取っているミカン。ライブおわりの部屋はがやがや。さして広くもない部屋に三バンド系十二人も大の大人が押しこめられているのだからそれはもうせまいわけだよ。もっとも片付けも終わってあとはもう撤収するだけ。スズメちんに至ってはもう一人で撤収済みみたいだ。ディスポサは相変わらず協調性がないね。
「なにそれ聞いてねえし、もっと早くに教えれよ。ここ一週間何回も会ってんじゃん」「りんごはおれの色恋沙汰なんて興味ないかと思って」「だー、でたまたそれか。いいよもうそういうのは」「おまえみたいな音楽が恋人みたいなやつの色恋となれば興味も沸くだろって話だ」「未完(すえじし)も言ってくれりゃいいのんに」「知らないと知らなかった」
 りんごの後ろからなに、と訊ねてきたおみおみにりんごがなんでも、道利とレモンが付き合うことにしたそうだと話す。ああ、やっとって感じだな、とだけさした興味もなさそうに返しておみおみはひっこんだ。そうやって必要以上に会話につっこんでこないからおみおみはいつまでたってもジミーなんだよ。
「確かに今更って感じだなあ」「だろ」
「みんなミッチーがレモンを好きなのもレモンがミッチー好きなのもわかってたもんね」
「そうそう」「そ、そうなのか」「そうだよ」「わかりやすいんだよ。主に道利」
 う、と図星で苦しそうなミッチー。みんなずっとずっと前から知ってるんだよそんなこと。気づいていないのはミッチーだけ。ミッチーは高校のころからとてもにぶい、にぶちんだ。やっくんにも劣らんね。やっくんはおばかなだけだけれど。
 おのおの片付けて荷物を持って、辰ちゃんは飲みに行きたがるミカンの襟首を掴んでこいつ明日が早いからと去り、たっくんに起こされたやっくんはもう夏だというのに人間湯たんぽ探しの旅に出たそうな。寒がりなんだね。おみおみはレポートがあるだかで帰って、あおいも珍しく某はあの海の残滓でキャンバスを染めなければって要するに課題で絵を描かなきゃで、残ったのはりんごとアスとグルーミーにミッチーとわたし。妙な面子だよ。
「レモン」「う」
 ぐいと力の通りに引っ張られると、灰色パーカーのグルーミー。グルーミーの背はさして大きくないけれどレモンは小さいから上を向いてもとどかない。被ったパーカーのフードと前髪でグルの顔に影が落ちてよく見えない。怖いし近いし暗いよグル。なんだいレモンは元気だよ。
「あまりからかわないほうがいい」「からかってなんかないよ。レモンはいつでも大真面目だ」「レモン」たしなめるような声だ。そんなこと、言われる筋合いはあるけれどもないのだよ。「からかうって、だれを。ミッチー?」「だれでも。みんな気づいてる」「知ってるよ、そんなの」「当人たちは気づいていないみたいだけど」「なら問題なっしんぐ」お説教なんてうんざりだよ、言って肩をすくめるとグルはベースをひっさげて「おれは明日から弾かない」とだけ残して帰ってしまった。ミッチーが聞いたらまた頭を抱えそうだから言わないであげておこう。どうせ明日にはわかることだけれど。これで残りはりんごとアスとミッチーとレモン。やっぱりなんだか微妙だね。
「じゃあ今日は道利が男になった記念ってことで飲むか」「なんだそれ」「言って欲しいのか。レモンとピーってことだよ」「自分でピーとか言うな」「そうつまらんことに突っ込むな。突っ込むのは穴だけに」「や、やめろ」「あんまりからかっちゃだめだよりんご。ミッチーは照れ屋さんだからね」「男の初心ってどうなんだかな。アス、店どこにする」「ん、いつも通り『祭り囃子』でいんじゃないかな。近いし」「異議なし、道利とレモンはどこでもいんだろ」「魚子ちんは、」「下にいるって。うしゃ行くぞー」
 エスカレーターを降りると壁に寄りかかって魚子ちんが待っていた。彼女の空色の髪は相変わらず綺麗だ。帽子の浅黄とのコントラストが妙ですね。すばらしいってことだよ。目が合うとちょっと久しぶりだねと魚子ちんは言う。ううんそうかな、そうかも、言われてみればここ数週間会っていなかったかもしれない。さっきりんごから電話で聞いたよ。おめでとう。よかったね。それで無邪気にわらうのだ。なんだか胸がいたいね。ずっしりと重いキーボードは気を使ったのかミッチーが持っている。いいのに、どうせ慣れているんだ。軽いほうがいやなことだってあるんだよ。

 みんな一緒に飲み始めるのだけど気がつくとグループができていて、予想はできたけれど結局は男女でわかれてしまうのね。むさくるしいチームはというと、りんごのコミュニケーションはもともと外国人なのだけれど酔うとさらに拍車がかかるものだからミッチーがわりといやそうだ。アスは酔っても顔にはでない。涼しい顔でお酒をあおる。りんごがミッチーに構ってわあわあしているのも気にせず飲む。たまに冴えたいいボケやらつっこみがでてちょっぴり笑う。その度に肩にかかったうす茶のきれいに梳かれた長い髪がさらさら揺れる。ぼけっと見ていたらりんごが「なんなんだよおおあの頭! どんぐりか! でもすきだああ」と叫んだのとほぼ同時に目があったから慌ててそらした。ミッチーはお酒には弱いからもうぐったりみたいだ。彼の酔いはべろんべろんと形容できるような陽気なものではない。元が明るくないのだから、酔ったときくらい上機嫌になればいいのに。そんなミッチーもこわいけれど。見てもみたいけれど。
 一方こっちのテーブルはなにもかもがほどよくてとてもよろしい。魚子ちんは顔は赤くなる割にけっこう飲める。飲みかたに節度があってすごくいい。座敷のテーブルに座って向かいの魚子ちんにおっさんのような質問を浴びせて困った顔をさせるのがすごく好きだ。困った顔もすごく可愛い。髪の水色と頬の桃とが最高じゃないか。犯罪だよりんご。
「魚子ちんはさあ」「うん」
 なあに、って。遠くを見る必要もないので分厚いレンズの丸い眼鏡も外されている。やばいかわいい。
「りんごと結婚するの」「え、」ふふふ、思わず笑みがこぼれる。「まっかだ」「え、え、ええっ」「かーわい」「レモンちゃんだって可愛いよ!」「レモンね魚子ちんの髪がすごく好きだなあ。青いの、すごくきれいだよ」えへへと笑うと魚子ちんもありがとうとはにかむように笑う。頬が赤いのが照れのせいなのか酔いのせいなのかはもうわからない。いい夜だ。むこうのテーブルの上に釣り下がった照明の傘に落ちている影を見てグルーミーの前髪とフードの影を思い出す。グルーミーも来ればよかったのに。楽屋でのことを思い出す。からかわないほうがいい。だれを。ミッチーを? からかってないよ。からかってなんかない。気づいているって、みんなって、だれが。みんなってだれ? わたしがからかっているって? だれを? だめだ、ぐらぐらしてきた。魚子ちんは、きっとりんごと結婚する。きっとじゃない。絶対だ。絶対。だって二人が一緒にいないところなんてもうだれにも想像できないもの。できないよ。そんな。二人がわかれるという可能性は存在し得るのだろうか。いつかわたしはだれかにあの二人がわかれちゃうなんて、と漏らすことになるのだろうか。そんなのいやだ。それともそうも思わないくらい自然にわかれてしまうのだろうか。昔はあんなに仲がよかったのにと言うのだろうか。そんなのいやだ。絶対いやだ。そうか、なんて恐ろしい質問だっただろう。そんなの答えはわからないに決まっている。質問を聞いてしまえばそれでおわり。どうしたって最悪の結末が幻として大なり小なり影を落とす。でも大丈夫だ、大丈夫なんだ、りんごと魚子ちんは。ぜったい。あれでもそれじゃ、わたしは?
「レモンちゃんは、」「んん」
「道利さんと結婚するの?」

 目を開けると自分の部屋だった。ついでにもうお昼だった。先月のままのカレンダーをまくって確認する。バイトはなし。よかったね。遅刻や無断欠席なんてしたらわたしの沽券に関わるよ。頭ががんがんしてぐらぐらして吐き気もする。ふらふらとキッチンの蛇口を捻って水を飲んだ。うわあ生き返る。でもまだ頭はがんがん。玄関を見るとキーボードやらの荷物が壁に立てかけるように置かれていた。見たことのない大人の字で「荷物が違っていたらすみません」とメモが貼ってあった。だれだこれ。キーボードを部屋にひきずってルーズリーフのファイルをテーブルに乗せて、お湯の沸いた笛の音で昨夜のことを思い出す。終電なんてとっくに逃していただろうしまず捕まえる気もなかったのだから、多分だれかが迎えを呼んだのだ。真っ赤な残像はたぶんりんごの家の車。あのアイドル顔のおとうさんがあんなに綺麗で整った字を書くとは到底思えないから、たぶんお兄さんだろう。そう結論づけてコーヒーを淹れる。あたまがいたいよ。
 コーヒーを飲んで軽くごはんを食べて、シャワーを浴びて服を着て、靴をつっかけて部屋をでる。なにも学習していないから意味がないし就職に役立つようにも思えなかったから、専門学校は今年度に入るときにをやめてしまった。やめたもののいまいちすることはない。とりあえず今はバイトをしている。ピアノはひいている。だけどプロになるほどではない。シナプスが、あのバンドが、メジャーデビューすればいいのにと思うことはある。できるほどの技術もセンスも魅力も、十分に持っていると思う。ミッチーの歌はたしかに才能やセンス溢れるりんごのそれと比べてしまえば負けているかもしれないけれど、安定しているし声もいいしわたしは好きだ。そうじゃなきゃバンドなんて組まない。みんなそうだ。けれどおそらく、シナプスがメジャーデビューをすることはない。機会があってもたぶんしない。そんなきがする。シナプスの作る曲は安定しているしメンバー間の仲も今はそれなりに安定しているけれど、存続についてはいつだって安定していない。なんにせよすべてが安定しているバンドなんて大概つまらないものだから安定しなくていいのだけど。
 言うまでもなく今もっともすべきことは「就職」であって、むずかしいなあと呟いてゲームセンターの角を曲がると人ごみの隙間から見たことのある阿呆が見えた。ワイシャツにベストでネクタイ、サングラス、右腕にはセミロングの茶髪をゆるく外巻きにしたレトロワンピのおねえさん。それが昨夜の人間湯たんぽということか。おうおう、あいかわらずかわいい子つれてるじゃねえか。おねえさん、そんなばかと一緒にいるとばかがうつってしまうよ。丁度いい距離を見計らって深く深く息を吸う。
「ばかヤツヤ!」
 周りの人たちがちらとこちらを見ては通り過ぎた。当のやっくんは白昼往来で急に名前を呼ばれて、それもなじられて、でも女といるときの顔は崩さずにわたしのほうを見た。必要以上には驚かない。ばかなくせにいっちょまえに女をたらすものだから、修羅場なんて奴にとっちゃ日常茶飯事だ。人の隙間を縫ってずかずかと近づいていく。なにこの女。レトロワンピがそういう顔でレモンを見た。
「その女はだあれ。次に浮気したら殺すって言ったはずだよね」「そうだっけ?」
 間抜けなこたえのやっくんの革靴を思いっきり踏みつけてやる。体重が軽いからたいしたダメージはないだろう。女はやっくんがすっとぼけているのだとしか思わない。「それでなに、今日はその女としてからレモンに会うつもりだったんだ」なにを、とノミみたいな声でやっくんが言いかけたのはレトロワンピの睨みで止まる。「どういうこと」怒る顔も声も可愛いけどその化粧、ちょっとレモンはいただけない。もっとナチュラルメイクでよい。それとやっくんに傾倒するのはレモンすごく感心できないなあ。ああ、あきらめと疲れをにじませて漏れる声。
「俺はだれも選ばないってことだよ」
 低くも高くもない温度でやっくんは吐き捨てる。飛んできた張り手を退いて避けてでもハイヒールでのローキックが脛にジャストヒット。「でっ」ばかだね。幼稚な捨て台詞ひとつ吐かずにおねえさんはかつかつと去っていった。かっこいいな。やっくんは蹴られた場所を手でさすっている。ばかだね。
「やっくん、修羅場ってやつだね」「自分で作っといて、よく言うよ。適当なことまで言いやがって」「適当じゃないよ」「適当だろ。おまえに次浮気したら殺すなんて言われた記憶ねえよ。ない、よ、な」「曖昧である意味がわからないんだけど。浮気もなにもレモンとやっくんの間になにかあったことはないよ。存知の通り」「あーあ、靴、踏まれたとこ白くなってっし」「どんまい!」「責任取れよ。高いんだぞ」「しらん」大きなため息を吐いて歩きだすやっくんの横になんとなくついていく。目的地は知らない。汚れくらいどうせ拭けば落ちるでしょう。
「まあいいんだけどさ、全然離れてくれなくて困ってたところだし」「そうだろうと思ったからわざわざあんなことしたんだよ。暇つぶしに」「はいはいどうもね。でも俺ロリとつるぺたは興味ないから」「レモンもやっくんには細胞一個分も興味ないよ」「そんなこと言われたの初めてだ……」
 がーと自動ドアが開いてひんやりと冷気が肌を這う。人工的な寒さが苦手だ。それなら暑いほうがいい。赤地に黄色のロゴ。明け方近くまでのセックスで起きたら昼近く。ブランチにロッテリア。そういった風情なのだろう。聞かずともわかる。人間湯たんぽは夏だってないと彼は眠れないらしい。あったらあったで眠れないと思うんだけど。
「奢ってやるよ」「ロッテリアで奢るって言ってもね。せめてモス」「俺が絶品チーズバーガーな気分だから」「じゃあレモンも絶品チーズバーガー!」「高いから駄目。シェイクな」「百円かよ!」「普通のハンバーガーならいいぞ」「けち」「俺は俺を愛してくれる女にしか優しくしねえの」「そういう人にだって表面上しか優しくなんてしないくせに」「向こうも表面だけだから」「うまいこと返したつもりか」「うまいか?」「やっくんが珍しくまともな受け答えをしてると思って」「あおいじゃねえんだからさ」「あおいのは意図的。やっくんのはとんちんかん」「おまえ紫香楽(しがらき)よりひどくないか。あ、店内でめしあがります」めしあがるは尊敬語だよおにーさん! ポケットから黒くて細長い財布を取り出して若い女性店員ににこり。向こうも満更でもなさそうににこり。おねえさん、それって営業スマイルですか。ばかも霞むかっこうよさ。あーあー、恥ずかしいね。
 トレーを受け取ったやっくんについて二階にあがり、窓際の席を取る。テーブルにトレーが置かれるとハンバーガーがふたつある。おまえの分。ばかのくせに女に気だけは使えるんだ。やっくんは世の中うまくわたっていけるよ。
 席についたやっくんは煙草を取り出すし銜えてかちんとライターを鳴らす。それで怪訝な顔をする。オイル切れだと言ってライターをテーブルに置くと、隣の隣に座るおねえさんに火を貰いに行った。包みを広げてハンバーガーを一口。シェイクはガーナチョコレート。そういえばしばらく前にライブ会場近くのロッテリアで辰ちゃんと軽食を取っていたときにやっくんと会った。そのときにもこれを飲んでいたような。まさか覚えていたのだろうか。偶然か。もし覚えてたのだとしたら恐ろしい。その記憶力をほかの局面で使えよと言いたい。左手は口元の煙草に、右手に携帯を持ってやっくんが戻ってくる。アドレスでも貰ったのか。向かいに座る。隣を歩くのは悪くないけれどこの男は向かい合うと体が悪い。なにかをおかしくさせられる。そうして女を落としているに違いない。
「やっくんっていつも昼間はなにしてるの」「なんだろーなあ。なんもしてねえよ」「バイトは?」「気が向いたときにする。今はしてない」「腐ってるね。ニートだニート」「フリーターですう」「フリーターたってほぼ毎日働いてるミカンとほぼ毎日だらだらしてるやっくんとじゃ天と地の差だよ」「実家に帰れば安定した仕事があるっていいよなあ」「家の仕事継ぐったって勉強しなきゃ継げないよ」「じゃあむりだ」「そうだよ」「べつに就職とか、考えてないわけじゃないんだぜ」「でもしないよね」「まあ」「だめなおとなだ」
 勝手にポテトを取って食べる。なんともいえない太さのポテトはお世辞にもおいしいとは言えない。ジャンクフードなんてそんなもの。たっかいお金を払ってこんなものなら自分で作ったほうが安いし健康的だしおいしいよ。でも現代人って、ジャンクフードすきだよね。この男みたいに。
「そういえば道利と付き合うことにしたんだって」「もういいよ。会う人会う人そればっか」「仕方ないんじゃね。みんなさっさとくっつけ思ってたしな」「だろうね」「おまえもさあ、あいつが奥手なのもおまえを好きなのも知ってたんだからさっさと告白すればいんだよ。待ってないで」「んんんん。いくじのないひとはきらいだよ」「好きな人ってそういないんじゃ」「やっくんもね」「それは聞き捨てならねえな」へらへらしていた目がサングラス越しでもわかるくらいきっと細められる。だけどたいした覇気はない。この男は自分が予防線を張っていないことに対しての侮辱がきらいだ。
「いくじなしだよ、いくじなしだ。仕事ができない職を持たない。責任を負うのが怖い。恋愛もできない。一番になるのもするのも怖い。まじまじと向かい合うのが怖い。だから手軽に済ませる。ぎりぎりまで近づいて、それっぽい気分を味わったら、すぐに離れる。楽だからね。そうすれば楽しいことしかないからね。深く付き合うのは疲れるし大変だしつらいから。賢いと思うよ。すごく賢い。でもばかだ。一番じゃないのは楽だからね。すごく楽だ。楽しいことしかない。つらいこともない。でも、その代わりにものすごく楽しいことだってないんだ。もったいない、そうやって死ぬまで生きていくのか。ばかだよ。ばかだ。いくじなし。いくじなし」
 テーブルを挟んでわたしたちは睨み合った。五秒もしたところで、終わりがないことに気がつく。どちらかが視線を外さなければ終われない。でも悔しいから外せない。向こうも同じだ。店内の喧騒と流行の音楽が二日酔いでぼんやりした頭の奥に響いた。膠着状態。「なあ」予想外にも沈黙を打ち破ったのはやっくんだった。なに。答えようと空気を通らせた喉がちりと痛んだ。 「おまえ、変だ」
 反射的にいつものとおり笑い飛ばしてしまいそうになったが、すんでのところで思いとどまる。深い意味はない。ただなんとなく、笑いどころか否か判断しかねたのだ。そのくらいやっくんの温度が対応に困るものだった。わたしが変だって。そんなのはいつものことだ。それともわたしが常に変であることを知った上での言葉か。「へん?」「おかしい」やっくんの言葉によって唐突に漠然とした不安に襲われた。へん、おかしい。
「なにが。どこが」「言葉になんないけど、なんか。ちがう、おまえだけじゃないな。変だ」「なにを」「まさか、」
 ぱん、と小気味いい音がした。考えるより先に手がでていた。「あれ、ごめん」「……いてえ」むすっとした顔のやっくんが左手で頬を押さえる。力はさして入っていない、口を止めてやりたかっただけだ。そんなに痛くもないはずだ。
「言っちゃだめだよ」「なにをだよ」「みんなきづいているけどね」「恋する乙女こわい」苦々しい顔でわたしを見るやっくんを笑う。ハンバーガーの紙を丸めてトレーに放ると席を立った。メールが来ている。今日は七時から練習らしい。
「ごち」「俺ちょっとおまえのこと嫌いになったよ」「そう。レモンは最初からやっくんが嫌いだよ。たらしだから」「そうか」悲しそうな顔をする。やっくんはあほだからね。そういうところは好きだよ。

「グルーミーがね」
 あれからふらふらと町を徘徊していたら待ち合わせに三十分ほど遅れてしまった。昨夜伝えなかったけれど結局ミッチーはグルーミーがベースを弾かないことを知ってしまって頭を抱えている。苦労性。
「今はなにを?」「『さもなくば溺死』。もうほとんど出来てるから合わせたいんだけど、グルーミーがね」困るわ、と辰ちゃんは息を吐く。
「今日はもう無理じゃねえかな」
 ドラムセットに座ったミカンが器用にくるりとスティックを回す。ひゅー格好いい。しかしかし、ミカンが言うならかなり信憑性がありますよ。なにしろミカンはシナプスの大黒柱なのですもの。
「ミッチーは?」
「外で会わなかったか。二日酔いだと」
「情けないわね」
「ミッチーは貧弱さが売りなんだよ」
「そんなもの売ってどうするの。まあ、ロッカーは細いものと昔から決まっているけど」
「いつの話だ。今はそう決まってもねえだろ。道利太くないけど細くもねえよ」
「二日酔いで練習できるの?」
「さあ」「どうかしら」
「でも出来なかったら収集かけないだろ」
「なんにせよミッチーが大丈夫でもグルがだめだけどね!」
「そうそう」
「それもそうね。あたしもう帰ろうかしら」
「道利戻ってこないな。俺ちょっと見てくる」
「あたしも行く。ちょっとレモン」「う?」
「グルーミー、更生してみてよ」「ミカンは?」
「みーはだめ。こいつ自分の気が向いたときしかそういうことしないから」
「ういーす。できるかわからんけどね」「おねがいね」
 がちゃんと重い扉を開けて二人がでていくのを見送る。振り返ると入り口から一番遠い部屋の隅のスピーカーの下にグルーミーが蹲っていた。わあお。これじゃあ迂闊に音も鳴らせないね。
「レモン」「てゅーす。ご機嫌いかが」
「よくはないけど悪くもない」
「いろいろ考えたんだけど、やっぱり昨日のグルの言う『みんな』がわからないんだよ」「そう」
「りんごは?」「気づいてる」「あおいは?」「気づいてる」「おみおみは?」「知らない」「辰ちゃんは?」「気づいてる」「ミカンは?」「気づいてる」「たっくんは?」「たぶん、気づいてる」「スズメは?」「あの人はわからない」「魚子ちゃんは?」「会ってないから知らない。りんごは、昨日は気づいてなかった。でも、様子を見ていればすぐにわかる」「そうかあ」
「あとはいいの」「うん。あ。ミッチーは?」
「なに」「気づかれてることに気づいてる?」
「気づいてない」ミッチーはばかだ。
「あとはいいの」念を押すように、スピーカーの影の中のグルーミーが言う。
「いいよ」「そう」
「本当に、みんなだね」「そうだよ」
「ミッチーわかりやすいもんなあ」「道利だけのせいではない。よからぬことを企んでいるときのレモンは、わかりやすい」「そうなん」「騙して悪いと思うなら最初からしないほうがいい」「思ってないもん」「なら好きにしていい。でも、道利と仲がこじれるようなことはやめてくれ」「こじれないよ」「だといいけど」
 のそりと、影からグルーミーが姿を現す。昨日よりもっと暗い灰色のパーカー。来たときからそこにいたのか、下がったチャックから青白くすらある肌が覗いている。緩慢な動きで立ち上がり、じりとチャックを定位置まで上げた。
「弾くの?」
「なにもかもうまくいかない道利が不憫だから」
「おおお」「不憫にさせているのはきみだ」「ミッチーが悪いんだよ」「五十歩百歩」
 それきりグルーミーは黙った。話は終わりなんだろう。そろそろ二人と道利も戻ってくるにちがいない。鍵盤に乗っている布を取って、コンセントを繋ぐ。ぱちんと電源を入れた。このノイズがすごくきらいだ。暗鬱なきぶんにさせられるし、なぜだか妙におなかに溜まる。
「ミッチーはレモンをゆるしてくれるかな」
「どうだろうね」
 やさしい人だから、ミッチーは、その優しさの使い方を間違っているけれど、やさしい人だ。許すもなにも、ミッチーはまずレモンを怒ってすらいないのだ。なんだかなぜだかとってもつらい。こんなことは今までなかった。

 次に魚子ちゃんに会ったのはちょうど八日後のことだった。元々あまり会う機会がないのだ。開口一番、魚子ちゃんはレモンに謝った。え、え、なになに。これってなにあやまり? レモン、魚子ちんに謝られるようなことはなにもされていないのだよ。
「ごめんね、その、気がつかなくて」
「隠しているからいいんだよ。むしろ気づかれてなくて大成功! みたいな」
「ううん、だめだよ」「そうかなあ」
「でも、どうして」「それはさすがに言えないよ」
「レモンちゃん、道利さんのこと好きだったのに」
「うん、好きだよ。大好きだ」
「なのにどうして」「だめなんだ。ミッチーはいくじなしだから」「嫌いになってしまったの」「ううん、大好き。ああそうだ、レモンも魚子ちゃんに謝らないといけないの」「なあに」「だれを騙すよりも、レモンは魚子ちゃんに嘘を吐くのがいちばんつらかったよ」わたしはなぜだか誰よりも魚子ちゃんに軽蔑されたくないのだ。見上げた魚子ちゃんのきれいな目がこころなしか潤んでいた。ごめんね、わたしが言うとふるふると首を振って髪が揺れる。うつくしい青だ。けれどわたしは肩元で揺れた髪を見てちがうひとを思いだす。ああ、わたしは頭がおかしくなってしまったのかもしれない。なによりミッチーが大切だったのに。ずっとそうだったのに。わたしがこわい。でも大丈夫。わたしは足蹴にした人間をしっかり活用できるから。だけどごめんね、むかしのわたし。わたしはミッチーとは結婚できない。




(08/07/03)