深海によせて




「今夜はもう盛ってないで寝ろよ」
「寝るよ。明日、っていうかもう今日だけど、学校だし。まあ休むかゆっくり行くけど。瑛誠(えいせい)君もおねむみたいだしね」
ねえ、と緒香(しょか)がえっちゃんの顔を覗き込む。慣れてもいないだろうし流石に徹夜でカラオケはきついものがあったのだろう。辛うじて自力で立ってはいるものの脳はもう眠る体勢に入っているようだ。わざとらしくよしよしと言って緒香は彼女の頭を撫でた。
「じゃ。また暇なときでも遊びにこいよ」
「言われなくとも」
 徹夜でも崩れない完璧な笑顔を見て、安心して俺は車に戻る。我が父親ながら如何なものかと思う真っ赤な車の運転席を開けると、助手席の身体が小さく撥ねた。
「あ、寝てた?」「ううん、大丈夫」
 そう言いながらも目をこする。少しも隠せていない。手を伸ばして髪の隙間から頬を包み込むように触れる。
「少しあつい。やっぱり寝てた」
 きまり悪そうに小さく笑う。それに呼応して俺も笑って、身を乗り出して口付け校内をなめる。起きぬけの味がする。
「寝てもいいぞ。運べるし」「いいよ、大丈夫」「ほんとかあ?」「十分もせずに着くじゃない」「まあ、そうだけど」クラッチを切って静かに車が滑り出した。丁度狭間だ。夜と呼ぶには明るすぎるし朝と呼ぶには暗すぎる。
「明日は? ん、今日か」「十時に起きれば間に合うよ。帰りは、三時くらいかな」「じゃ、迎えに行くよ。終わったらメールして」「うん」「今日は楽しかった?」「うん」「それはよかった。一時はどうなることかと思ったけど。でもまさかレモンが来るとは思ってなかったなあ。狄嶺(きれい)については、本当にごめん。あれは俺のミス。……魚子?」ちらと横を窺う。「なーこー」すう、と静かに身体が上下した。今度こそ、眠ってしまったようだ。
 なにか音楽をかけようかと考えてすぐに打ち消す。直に部屋に着くだろうし、カラオケで最後に聴いた『おだいじに』の余韻を消したくはなかった。恋人であるからと贔屓目だとしても、魚子の歌が好きだ。
 一時的に借りている車庫に車を入れる。砂利で僅かに揺れる車体に魚子が起きてしまわないかと冷や冷やしたが、深く眠っているらしく身じろぎすらしなかった。どうするか少し考えて、まず部屋の鍵を開けることにする。アパートの前の自動販売機で水も買う。玄関の扉をいっぱいに開いて傘立ての上に水を置く。
 車に戻って助手席の扉を開けると、先刻となにも変わらずに魚子が眠っていた。シートベルトを外して足と背中の下に腕を差し込み持ち上げる。よし、いけそうだ。「……起きるなよー」
 しっかり持ち上げて、長い髪が挟まらないかも確認して、足で車の扉を閉める。あらかじめ持っていたリモコンを押すと、朝の住宅地にはけたたましい音が響いて鍵が閉まった。サイドランプが明滅する。
 そろそろと階段をのぼって部屋にあがり、ベッドに魚子を下ろして息を吐く。くすんだクリーム色のカーテンから朝の光が漏れていた。徹夜の朝はいっそ逆に清々しい。しかしこれでは昼間もたない。彼女が大学から帰ったら、盛大に彼女を祝ってやるのだ。そのために今は眠らなければ。玄関の扉を閉めて、水を冷蔵庫へとしまった。楽な格好に着替えてベッドに戻る。彼女には朝起きたら服が皺になっていることを嘆かれるかもしれないけれど、そこまでの面倒は見切れない。
 ベッドに乗って、美しい青の髪を梳く。薄い空腹もほどよい眠りを誘ってくれる。これから訪れるであろう泥のような眠りが楽しみだ。明日の計画を軽く反芻して彼女の反応を想像した。緩慢ながら決定的な睡魔が襲ってきて、目蓋が重くなる。十時なんてあっという間だ。
「誕生日おめでとう、魚子」




(08/07/04)